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藤原道長憎しのあまり、暴走し自滅した…ギリギリまで道長を追い詰めた定子の兄・伊周が迎えたあっけない最期

プレジデントオンライン / 2024年8月4日 18時15分

左=藤原道長(画像=読売新聞社『日本国宝展』/Wikimedia Commons) 右=「石山寺縁起絵巻」第3巻第1段より藤原伊周(画像=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』/Wikimedia Commons)ともにCC-PD-Mark

皇后定子の兄で、藤原道長の甥である藤原伊周とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「権勢を誇った藤原道隆の遺児で、わずか21歳で内大臣にまで昇進した。父の死後は、自滅ともいえる行為を繰り返し、政治生命を絶たれた」という――。

■定子の兄・伊周が道長を恨んだワケ

藤原道長(柄本佑)の姉で、一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)も、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)も逝ってしまった。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第29回「母として」(7月28日放送)。

この回の放送で、良くも悪くもいちばん存在感を示したのは、前の週に亡くなった皇后定子(高畑充希)の兄で、道長の甥である藤原伊周(三浦翔平)だったのではないだろうか。

兄弟で花山法皇に矢を射かけて自滅した長徳2年(996)の長徳の変以降、傾いた家の再興に必死な伊周は、「藤原の筆頭に立つ」との意気込みで、声を荒らげながら長男の松(小野桜介)を指導していた。それを見た弟の隆家(竜星涼)は、「兄上の気持はわかるが、左大臣(註・道長)の権勢はもはや揺るがぬぞ」と諭したが、伊周は「揺るがせてみせる」と言い張った。

さらには、自分が失脚し、定子が失意のまま命を落としたのも「左大臣のせいだ」と、強く思い込んで恨みを募らせ、夜な夜な道長を呪詛しはじめた。伊周の恨みは、道長に肩入れする詮子にも向けられ、詮子の病が悪化し、ついに命を落としたのは、伊周の呪詛が効いた結果であるかのようにも受けとれる描き方だった。

史実においても、呪詛の効き目が信じられていた節があるが、ともかく、詮子は息も絶え絶えに、道長に「伊周の怨念を収めるために、位をもとに戻して」と頼み、それを受けて伊周は、ふたたび内裏への昇殿を許されたのだった。

ところで、伊周の恨み辛みはこの先、ほんとうに収まるのだろうか。

■道長に乗り移った「死霊」の正体

それぞれ太宰府(福岡県太宰府市)と出雲(島根県東部)に流された伊周と隆家の兄弟が、赦免されて都に戻ったのは長徳3年(997)の初夏だった。このとき、道長は早速手を打った。

三浦翔平
写真=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ
2017年4月26日、イギリス・ロンドンのテート・モダンで開催されたオメガ スピードマスター誕生60周年記念イベント「Lost In Space」に出席した三浦翔平。 - 写真=WireImage/ゲッティ/共同通信イメージズ

7月5日、道長は藤原公季を内大臣にし、左大臣道長、右大臣藤原顕光、内大臣公季という政権のトップの布陣を固めた。ねらいが伊周の復権を阻止することにあるのは明らかだった(伊周は失脚前、内大臣だった)。伊周ら中関白家が浮上できないのは「左大臣のせいだ」とする伊周の指摘は、外れていない。

だが、道長自身、みずからの伊周への仕打ちに疚しさを感じていたのだろう。長女の彰子を中宮にするのに成功してから3カ月ほど経った長保2年(1000)5月19日、藤原行成の日記『権記』によれば、道長に死霊が乗り移った。どうやらこれは、道長が伊周に感じていた疚しさと関係があった。

「死霊」の正体は、道長の長兄で伊周の父である道隆と思われ、道長の口を借り、行成に向かって次のようにいったという。「前帥を以て本官本位に復せらるべし。然れば病悩癒ゆべし(先の太宰権帥である伊周をもとの官職と官位に戻すことだ。そうすれば道長の病気も治癒することだろう)」。

伊周の怨念を収めるために、位をもとに戻す――。これは疚しさを感じる道長にとっても、頭を離れない事案だったのだろう。ただし、このとき道隆が乗り移った道長は、こうもいったという。「此の由を申すの次には、密かに人の気色を見るべし(このことを申すときは、こっそりと人の様子を見定めるように)」。

要するに、道長は兄の死霊の口を借りて、伊周を復位させることを一条天皇や公卿たちが望んでいるかどうか、探りを入れたとも受けとれる。

■亡き定子が残した皇子

さて、「光る君へ」の第29回では前述のように、詮子が病没する場面が描かれた。これは長保3年(1001)閏12月22日のことで、6日前の12月16日、一条天皇は詮子の御所に行幸した。その際、天皇は伊周を正三位に戻すと決断をしている。ドラマでは、詮子が伊周の復位を頼んだのは道長だったが、史実では、一条天皇が直接うながされたようだ。

いずれにせよ、詮子の病悩の背景には、「光る君へ」で描かれたように、伊周による呪詛がある――。そんな意識を詮子と一条天皇は共有していたと考えられる。

次第に元来の官位と官職に近づいていった伊周だが、本人は昇進をゆっくり待つことはできず、前のめりになった。たとえば、一条天皇が定子の妹(つまり伊周の妹)である御匣殿(みくしげどの)に夢中になり、長保4年(1002)に懐妊させた際は、彼女を自宅に引きとって皇子の誕生を期待した。しかし、御匣殿は体調を崩し、出産前に息を引きとってしまうのだが。

それでも伊周には前のめりになる理由があって、そのことが道長にとっては悩みの種となった。それは、伊周が亡き定子が産んだ一条天皇の第一皇子、敦康(あつやす)親王の伯父だった、ということである。

【図表1】藤原家家系図

■ふたたび高い地位についた伊周

道長が長女の彰子を入内させたとき、彼女は数え12歳にすぎなかった。さすがにこの年齢では、寵愛した定子亡きあととはいえ、現実的に懐妊するのは難しい。しかし、彰子が皇子を産み、その皇子を春宮(皇太子)にしないかぎり、いずれは敦康親王の伯父である伊周が天皇の外戚となる。そうなれば道長は権力の座を追われかねない。

そこで、道長は敦康親王を、当初、養育が託されていた御匣殿から切り離し、彰子に養育させることにした。道長には明確なねらいがあった。

彰子のもとに敦康親王がいれば、天皇は親王に会いたいために彰子のもとに通い、懐妊の可能性がでてくる。よしんば彰子が皇子を産まず、敦康親王が即位したとしても、彰子が養母、道長が養祖父ということになれば、伊周らを排除したまま、道長が新天皇を後見できる可能性が生じる。

京都御所
写真=iStock.com/Alla Tsyganova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alla Tsyganova

だが、呪詛が力をもつと信じられていた当時のこと。道長は追い落とした伊周に、恨みをいだかれ続けるのが怖かった。一方、一条天皇は伊周らの中関白家を、天皇の外戚らしい地位に戻す必要性を感じていた。

こうして長保5年(1003)、伊周は従二位になり、寛弘2年2月25日には、座次が正式に「大臣の下、大納言の上」と定められた。

■冷静でいれば、逆転の目もあった

ふたたび参内し、朝議にも参加するようになった伊周に対して、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』によれば、公卿たちの反応は冷ややかだった。とはいえ、伊周は公卿たちにとって、無視できる存在ではなかった。

それまで第一皇子が皇位を継承しなかった例はなく、敦康親王は高い確率で近い将来、即位すると思われた。そうなれば、天皇ともっとも血筋が近い貴族は、叔父の伊周になる。昼は道長に仕えながら、夜には伊周の屋敷に参上する公卿たちが現れるのも、当然のことだった。

だから伊周も、前のめりにならずに冷静でいれば、逆転の目もあったかもしれないが、彼にはそれはできなかった。

寛弘4年(1007)8月、道長は山岳修験道の聖地である金峯山(奈良県吉野町)に詣でて、彰子の皇子懐妊を祈った。『大鏡』には、このとき伊周が不穏なことを企てているとの情報があり、道長が警戒を強めた旨が書かれている。歴史物語である『大鏡』の記述を、すぐに史実とは受けとれないが、『小右記』をまとめた『小記目録』にも、伊周らが「相語らいて左大臣を殺害せんと欲する間の事」と記されている。

■公卿たちの前で行った必死のパフォーマンス

寛弘5年(1008)9月11日、彰子が第二皇子で道長の孫にあたる敦成(あつひら)親王を出産すると、伊周の焦りは頂点に達したようだ。12月20日、敦成が生まれて100日の祝いの席でのこと。公卿たちが詠んだ歌の序題を行成が書こうとしていると、伊周が筆を取り上げ、みずから序題を書きはじめたという。

『本朝文粋』に収められたその序題には、祝いの対象である敦成親王を「第二皇子」と呼んだうえで、隆周の王は暦数が長いが、わが一条天皇も暦数が長く子も多い。康なるかな帝道は云々、と書かれている。

すなわち、一条天皇には敦成親王のほかにも皇子がいると訴えつつ、道隆と伊周親子、および敦康のことを意識させるように「隆」「周」「康」の文字を入れ込んだのだ。倉本一宏氏は「敦成の誕生を祝う宴において、定子所生の皇子女、特に第一皇子である敦康の存在を皆に再確認させようとした、伊周必死のパフォーマンスだったのだろう」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。

それだけなら、冷めた雰囲気をつくり出すだけで終わったかもしれないが、伊周はその後もやらかしてしまった。

■苦しみ続けた人生

翌寛弘6年(1009)正月7日、正二位に叙せられたが、正月30日、何者かが彰子と敦成親王を呪詛していたことが発覚する。捕らえられた伊周の外戚や縁者が、中宮(彰子)、若宮(敦成)、左大臣(道長)がいると、帥殿(伊周)が無徳になるので、3人がいなくなるように呪詛した、と自白してしまった(『政事要略』)。

敦康親王の外戚である伊周が正二位にまで上りつめたという事実は、敦成親王の誕生後であっても、道長へのプレッシャーになったに違いない。そこに起きた呪詛事件。

事件の当事者は、伊周の縁者も伊周自身も翌年には赦免されているので、呪詛なるものが事実だったかどうかも怪しい。しかし、いかにも呪詛しそうに見えてしまったのは、伊周の不徳の致すところといえようか。こうして伊周の政治生命は、ついに完全に断たれることとなった

それから1年後の寛弘7年(1010)正月28日、数え37歳の若さで没している。父道隆の権勢のもと、わずか21歳で内大臣にまで昇進した伊周。そのピークが忘れられないがゆえに、苦しみ続けたその後の人生だったのではないだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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