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リニア開業が遅れるのも頷ける…「自然とは何か」も定義せずに「自然を守れ」と主張する静岡県の"牛歩戦術"

プレジデントオンライン / 2024年8月15日 8時15分

8月5日の県生物多様性専門部会 - 筆者撮影

リニア着工に伴い、南アルプスの自然環境をどう保全するかの議論が静岡県で続いている。ジャーナリストの小林一哉さんは「県は『自然を守れ』とJRにしきりに主張するが、肝心の自然や生物多様性が何かをきちんと定義していない。このままでは議論は袋小路に入り込み、ますますリニア開通が遅れてしまう」という――。

■「シカの食害」が初めて議題に

南アルプスの自然環境保全をテーマにした静岡県生物多様性専門部会が8月5日、静岡県庁で開かれた。

静岡県は、リニアトンネル工事により損なわれる南アルプスの自然環境と同等以上の「代償措置」を提案するようJR東海に求めた。

具体的には、現在静岡県が取り組んでいる、ニホンジカの食害から高山植物を守る「防鹿(ぼうろく)柵」設置が、JR東海の取り組む「代償措置」の1つになるようだ。

会議後の囲み取材で、部会長代理を務めた岸本年郎委員は「(防鹿柵の設置は)代償措置の1つとしてありうる」などと述べた。

「防鹿柵の設置」は、会議の説明資料で、県の課題・取り組みとして真っ先に示されている。

説明資料には、静岡県の総合計画として「南アルプスが有する貴重な高山植物をニホンジカの食害から守る防鹿柵の設置やICTを活用した実態把握などに取り組む」と記されていた。

その説明資料によって、「ニホンジカの食害」が初めて示され、JR東海に求める「代償措置」に防鹿柵の設置が突然、浮上したのである。

■「防鹿柵」は静岡県だけの問題ではない

これまで専門部会で、増え続ける「ニホンジカの食害」について何らの議論が行われたことはない。そもそも、専門部会委員に、現在、ほ乳類の専門家はいない。

ニホンジカの問題は、静岡県に隣接して南アルプスを有する山梨、長野両県の自然環境にも影響を及ぼしている。

防鹿柵で高山植物を守るのは限られた地域であり、防鹿柵で遮られれば、ニホンジカは餌を求めて別のところに移動する。

つまり、静岡県に防鹿柵を設置すれば、山梨、長野の両県へニホンジカの集団が移動して、隣県の高山植物に被害が出るかもしれない。

JR東海が防鹿柵の設置を提案した場合、しっかりと南アルプス全体の影響を踏まえた議論をしなければならない。

南アルプスのニホンジカが増えていることはわかっていても、どこにどのくらい生息するのかなどの調査は行われていない。

それだけに、静岡県が「代償措置」として防鹿柵の設置に前のめりになっていることに、強い違和感を覚えた。

■リニア工事に関係なく「シカの食害」は問題に

まず、今回の代償措置に挙げられた「防鹿柵」と関係するニホンジカの食害はどうなっているのか。

静岡だけでなく、山梨、長野の3県にまたがる南アルプスの多様な自然環境はニホンジカの食害によって、大きく変わってしまっている。

「シカが日本を食べつくす」と題された環境省のパンフレットには、南アルプスでニホンジカが高山植物を食べつくした状況を3枚の写真で紹介している。

環境省のパンフレット「シカが日本を食べつくす」
環境省のパンフレット「シカが日本を食べつくす」

1979年夏には南アルプスに見事なお花畑が広がっていたが、2005年夏には草原となってしまい、2010年夏にはとうとう草原も消え、石ころがむき出しの状態になってしまった。

まさに、ニホンジカにすべて食べ尽くされてしまった状態であり、このような状況が南アルプス各地に起きていた。

南アルプスでは、リニアトンネル工事着工とは関係なく、生態系の深刻な被害に直面していた。

■シカが「自然環境の破壊者」と言われるゆえん

環境省の推計によると、ニホンジカは2019年には、全国で約260万頭が生息、毎年約60万頭が捕獲されている。環境省は2024年までに約152万頭までに減らす計画を立てていた。

静岡県の博物館施設に展示されたニホンジカの剥製
筆者撮影
静岡県の博物館施設に展示されたニホンジカの剥製 - 筆者撮影

ただどんなに捕獲をしてもニホンジカは増加傾向にある。それは、ニホンジカが反芻(はんすう)胃と呼ばれる4つの胃を持ち、イノシシのような単胃動物が消化できない繊維や細胞壁なども分解してしまう強い胃を持っているからだ。

ニホンジカは有毒物質を含まない植物であれば、何でも食べてしまうのだ。

イノシシ、サル、クマは人間と同じ単胃動物だから、消化が容易な植物や動物しか食べない。イノシシやサルは畑の作物などを荒らす害獣だが、ニホンジカは樹皮などすべての植物を食いつくす自然環境の「破壊者」と呼ばれる。

南アルプスの高山植物を守るには、柵やネットを施す以外に打つ手はない。

ただ、増えすぎたニホンジカは2000メートル以上の山岳地域で高山植物を食べ尽くしてしまったあと、餌を求めて縄張りを他の地域に拡大している。

■「高山植物の食害」以外はわからないことだらけ

静岡市は南アルプスのリニア工事に伴い、絶滅危惧種指定などに指定されている重要植物の移植、播種(はしゅ)を実施した地域の調査を行っている。

2022年11月に発表した調査結果で、15種のうち9種で生育数が減少していることが判明、ニホンジカの食害が影響していることがわかった。

重要植物の移植、播種は、JR東海の作業員宿舎建設などに伴う環境改変を踏まえたもので、従来とほぼ同じ生育環境をつくって実施した。

標高2000メートル以上で高山植物を食べつくしたニホンジカは、リニア工事の基地となる3カ所の作業員宿舎やトンネル非常口のある標高約1000メートル前後の南アルプスの森林等で餌を求めて縄張りを拡大して、繁殖活動を行っているのだ。

静岡県は2000~3000メートル級の聖岳、三伏峠、荒川小屋など5カ所に防鹿柵の設置を行っている。ただ防鹿柵に遮断されて、その地域から離れたニホンジカがどこに行くのか、全くわかっていない。

お花畑を形成する高山植物の被害はわかっても、高度の低い樹林帯などでの食害などは全くわからない状況なのだ。

■シカの増加も「自然環境変化の一部」とする見方も

何よりも、登山者たちが目にするだけのお花畑の復活だけを目指す自然環境保全は人間の都合を優先していると指摘されても仕方ない。

静岡県がニホンジカ被害の対策として駆除を行っているのは、伊豆と富士山麓地域のみである。小ジカを含めて毎年5万頭以上を駆除している。

伊豆地域のニホンジカの集団
静岡県提供
伊豆地域のニホンジカの集団 - 静岡県提供

伊豆エリアなどのニホンジカはシイタケ、ミカン、ワサビなどを食べる害獣だが、南アルプスで高山植物を食べてしまっても県民生活への影響はないからだ。

静岡県は今年度、南アルプスで試験捕獲として、10頭の駆除を目標に立てている。

伊豆、富士山麓地域と違い、交通の不便な標高約3000メートルの山岳地域まで行って、ニホンジカを駆除してくれるハンターはほとんどいない。

また駆除した個体を地面に埋めるなどの面倒な処理もあり、試験捕獲にはあまりにも多額の費用が掛かる。

このニホンジカ捕獲が来年度以降、行われるのかどうか決まっていない。

明治期以前、ニホンジカにはニホンオオカミという天敵がいたが、人間によってオオカミが絶滅させられたあと、ニホンジカの天敵は人間以外いなくなった。

また2006年まで続いたメスジカの禁猟政策によって、ニホンジカが急増した。

専門家の間では、ニホンジカの増加も自然環境の変化と受けとめ、何らの対応をしないとする考え方もある。

■「生物多様性とは何か」が議論されてこなかった

環境省パンフレットには「シカは植物を食べる日本の在来種で、全国に分布を拡大し個体数が増加、シカが増えることは良いことと思うかもしれない」と断り書きをした上で、「全国で生態系や農林業に及ぼす被害は深刻な状況になっている」として徹底的に駆除する理由を説明している。

「日本在来種のニホンジカが増えることは良いこと」と言っているのに、「徹底駆除する」のは、要は人間生活に大きな影響を与えるからである。

この考えに基づけば、南アルプスでは県民生活への影響はないから、今後、徹底駆除することはないだろう。

ニホンジカの急増で、南アルプスのシンボルであり、国の特別天然記念物ライチョウが餌となる植生を失い、急減したとの報告が出されている。ただ防鹿柵とライチョウの関係は調べられていない。

また南アルプスではライチョウの卵を食べてしまうキツネ類も増え続けている。となると、今度はキツネ対策をしなければならなくなるが、そこまで手が回らない。

南アルプスという複雑な自然環境の中で、「生物多様性を守れ」というテーマで何を守りたいのか、これまでちゃんと議論されてきたとは思えない。

だから、ニホンジカから高山植物を守ることが、生物多様性を守ることに本当につながるのか、さまざまな疑問が生じてくるのだ。

■自然とは何かも定義せずに「代償措置」を求める

川勝平太前知事は「南アルプスは国立公園であり、国民の総意として南アルプスの自然を守ることは国策である。エコパークに認定された南アルプスの生態系を保全するのは国際公約だ」などと理念的な主張を繰り返していた。

川勝知事がいなくなると、環境省の「ネイチャーポジティブ(自然再興)」というわかりにくいカタカナ用語を持ち出して、今度は「代償措置」をJR東海に求めているのだ。

根本的に「生物多様性を守れ」というテーマ自体よくわかっていないのだ。

【図表1】代償措置等(提案:基本的な考え方のイメージ図)
「静岡県中央新幹線環境保全連絡会議 第13回生物多様性部会専門部会」資料より

■このままでは議論が袋小路に入り込んでしまう

「生物多様性」とはいったい、何なのか?

生物には、細菌など目に見えない微生物が含まれる。

県が2020年に開催した「ふじのくに生物多様性地域戦略シンポジウム」では、「『生物多様性』とは非常にわかりにくい概念だ」が結論だった。

それなのに、「生物多様性」が何かを明確に示さないままで、「生物多様性」専門部会の議論を始めてしまったのだ。

「生物多様性」で言えば、南アルプスは、キクガシラコウモリはじめコウモリの種類など非常に数多いことで知られる。

新型コロナウイルスの感染源は特定されていないが、SARSは中国広東省のキクガシラコウモリが感染源となった可能性が高いとされた。

当時、中国政府はキクガシラコウモリはじめハクビシン、アナグマ、タヌキなど1万頭以上を処分した。

さまざまなコウモリ類はじめ南アルプスでは数えきれない生物が生息する。ニホンジカと高山植物と同様に、食物連鎖の中ではすべての生物が関わりを持っている。

ニホンジカから高山植物を守る防鹿柵という人工物の設置が南アルプス全体の生態系保全に寄与するのかどうか全くわからない。

ニホンジカを含めてすべてを調査するとなると、長い時間と多額の費用が掛かってしまう。

JR東海が「代償措置」として防鹿柵の設置を提案することで、かえって議論が袋小路に入り込んでしまう恐れがある。

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小林 一哉(こばやし・かずや)
ジャーナリスト
ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。

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(ジャーナリスト 小林 一哉)

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