母は障害のある長男に全エネルギーを注いだ…親に切り捨てられた優等生の長女が兄の部屋で大号泣したワケ
プレジデントオンライン / 2024年8月17日 10時15分
ある家庭では、ひきこもりの子どもを「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体的事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。
今回は、障害のある兄を持ち、きょうだい児として苦悩し続けてきた現在40代の女性の家庭のタブーを取り上げる。彼女の「家庭のタブー」はなぜ生じたのか。彼女は「家庭のタブー」から逃れられたのだろうか。
■両親は進学校の同級生
山陰地方在住の月野由紀さん(仮名・40代・既婚)は、代々100人規模の社員のいる会社経営をする家柄の両親のもとに、長女として生まれた。2歳上には兄、3歳下には妹がいた。
両親は同じ進学校の同級生で、高校生の頃から交際が始まった。お互い大学に進み、大学を卒業後、すぐに結婚。父親は親の会社には就職せず、製造業の会社に入社し、母親は専業主婦になり、25歳で長男を出産した。
「父は、怒りっぽくて口下手な人でした。地元の町おこし青年団に入っていて、ほとんど家にいませんでした。子どものことは全て母に押し付けて、問題があるといつも母の育て方が悪いと責めていました。兄のことは見て見ぬフリ。父は昔から何でもできる人で人望もあったので、自分と正反対の兄に嫌悪感を持っていて、心底がっかりしてるのを全面的に出し、妹ばかり溺愛していました。母は優しい人ですが、感情的ですぐに泣きます。何かを学ぼうとか勉強しようという意欲がなく、本も読みません。ただひたすら兄を守ろうとしていました」
それでも両親の仲はそこまで悪くはなく、父親は、夏はプール、冬はスキーなどに家族を連れて行ってくれた。専業主婦の母親は、ほぼ毎日のように自宅に高校時代の友達を招き入れ、お茶会を開いていた。小学校に上がる前の月野さんと兄とは仲が良く、よく一緒に遊んでいた。
■行きたくないのに
月野さんが小1、兄が小3になると、突然、車で40分もかかる塾に週2で通うことになった。平日の17時頃に家を出発するため、母親は3歳の妹も連れて行った。
「兄のための塾でしたが、私も強制的に連れて行かれました。私は楽しみにしていた『忍たま乱太郎』が見れなくなるため、『面倒くさい』という感情ばかりが先立ちました」
着いた所は、細長い民家。玄関もその先も薄暗く、嫌々連れてこられた月野さんのテンションは地に落ちた。
そこにいたのは、「勝子先生」と呼ばれる白髪で小太りなおばさん。塾長で、この民家の持ち主だった。
「勝子先生は笑顔でも目が笑ってない人で、塾生は他に4人いました。誰も聞いていないのに1人で早口でしゃべっている小学校高学年男子“早口男”。無言でくねくねへらへらしている中学年男子“くね男”。そして大人しそうな姉と利発そうな妹の小学生姉妹。妹はゆりちゃんといって私と同じ年齢でした」
“くね男”の隣には母親らしき人がいて、“くね男”が少しでもくねくねすると容赦なくつねった。よく見ると、“くね男”はつねられた痕だらけだった。
子どもたちは畳に正座し、長机に1列に並んで勉強していた。
ある日の授業は、1人ずつ立って、持ってきた国語の教科書を読むというもの。その中に出てきた単語を勝子先生が挙げて、その単語を使って全員が5分ほどで短文を作り、1人ずつ発表。作った短文の数や出来具合で勝子先生が採点し、点数を競い合う。
「学校のクラスのみんなでやったら楽しかったかもしれませんが、その塾でやるのはただ苦しかったです。母のそばで遊んでいる妹が羨ましくてしかたありませんでした」
“くね男”は文字が読めず、教科書すら持ってきていないようだった。時々「あぁ!」とか「ふぅー!」とか「なななな!」などと叫び出すたびに母親がつねり、それでまた叫んだ。
月野さんは“くね男”が叫ぶたびに恐怖で心臓が縮み上がった。
「助けてほしくてチラチラ母のほうを見たのですが、母は兄しか見ておらず、短文作りを手伝っていました。手伝っているというより、母が考えた短文を兄はノートに書くだけでした」
“早口男”は教科書の音読も、早すぎて何を言っているのかわからなかった。勝子先生が「そこまで」と言っても読むのをやめない。無理矢理教科書を閉じると、読むのをやっとやめる。やめた後は、アフリカに生息する蝶々の話を、虚空を見つめながら大声で話し出した。
姉妹の姉は、音読する時も発表する時も、顔や耳が真っ赤になった。声が小さくて何を言っているのか全く聞きとれなかった。
しかし勝子先生は聞きとれているようで、漢字の読み方などの間違いを正す。その度に姉は慌てふためき、もっと真っ赤になった。
姉の音読中に妹のゆりちゃんを見ると、無表情でただ真っ直ぐ前を向いており、姉の音読が終わるとまたいつもの利発そうな顔に戻った。そして大きな声ではっきりと、誰よりもスラスラと教科書を音読した。
「兄は、音読中に漢字がわからなくて、何度も何度もイライラしながら母に聞いていました。その度に母は教科書を覗きこみ、一生懸命にふりがなを振りました。その間、私もゆりちゃんと同じように無表情を崩さなかったんだろうなと思います」
月野さんの兄は、小学生になってからできないことがどんどん増えていった。足し算引き算。繰り上がり繰り下がり。複雑な漢字を覚えられない。早く走れない。音符が読めない。自分の意見を言えない。
兄よりも2歳下の月野さんのほうが“できる”ようになっていくに従い、兄から笑顔が消えていった。日に日に兄はイライラするようになった。少し前までは仲良しだった兄と月野さんの間には会話が消えた。
「勝子先生の塾では、いつも私が1番でした。でも学校では全然1番じゃありません。兄は塾に行く日になると荒れ、母はこう言いました。『兄くんは頑張っているからね。疲れたんだよね?』。そうなのかもしれません。でも、兄は塾しかないかもしれませんが、私はピアノもバレエも英語も習いに行っていました。兄の塾に行くせいで練習や宿題をする時間がなくなる。行きたくもないのに文句ひとつ言わず、兄のために行っているのに……」
月野さんの心の中に、どんどん黒いものが膨らんでいった。
■兄のいじめを目撃
月野さんは小4になった。教室移動のため、たまたま小6の兄の教室の前を通った時、兄が3、4人の男子に掃除道具入れの中に閉じ込められるところだった。
月野さんは足早に通り過ぎた。
理科室に着くと、すぐに授業が始まったが、全く教師の声は入ってこない。5歳くらいの頃、兄と遊んでいたことを思い出していた。
一緒におたまじゃくしをバケツいっぱいに獲り、そのまま庭に置いておいたら、全部カエルになったのか、いなくなっていた。おたまじゃくしがいなくなったバケツを見て、月野さんと兄は地面に転がり、ゲラゲラ笑った。
「兄がいじめられている」と思うと、怒りと悔しさで涙と鼻水が一気に出てきた。クラスメイトも教師もびっくりして駆け寄ってくる。月野さんは保健室に連れて行かれた。
教師は心配そうにどうしたのか訊ねるが、月野さんは教師に迷惑をかけるのが忍びなく、何も話せなかった。しばらくすると、教師に呼ばれた母親が迎えにきてくれた。
「先週末にバレエの発表会があったので、疲れたのかもしれないです」
母親は言った。
「私は『またか』と思いました。母は私に何かあると、それを何でもないことにすぐにすり変えました。私に『何かあったの?』とか、先生に『クラスで何かあったのですか?』などと聞いたりもしません。私を気にかける余力は母にはなかったのだと思います」
車で家に帰る途中、月野さんは兄のいじめを目撃したことを言おうと口を開きかけた時、「ケーキでも買っていこうか!」と母親は明るく言った。「ソフトクリームを食べて帰るのもいいね!」そう言って月野さんを見た。
月野さんは、言いかけた言葉を飲み込んでしまった。そして、こう答えていた。
「ソフトクリームもケーキも食べたいな」
運転する母親の横顔は笑っていた。
「私は結局、兄がいじめられていることを誰にも話せませんでした。『兄がかわいそうだ。助けてあげたい』という気持ちと、『母の意識を兄だけに奪われたくない』という気持ちに揺れ動いていました」
しかし、ほどなくして兄へのいじめは明るみに出た。なぜなら、とてもひどくなったからだ。
兄の体にアザや擦り傷ができ、血を流して帰ってくる日もあった。給食袋や体操服はなくなった。リコーダーは粉々にされて捨てられていた。
父親はイライラし、「男ならやり返せ!」と怒鳴った。うつむいているだけの兄を、母親は泣きながら抱きしめていた。
■「意味がない」
兄のいじめが発覚してから、母親は以前より一層兄を守るようになった。
「この頃から母は、兄が傷つけられることに敏感になり、私に対しては、やたらと『意味がない』と言うようになりました」
月野さんがテストで100点をとっても、リレーの選手に選ばれても、音楽会のピアノの伴奏者に選ばれても、作文が学年だよりに載せられても、いつも「意味がない」と言われた。
「母に褒めてほしくて、私のほうを見てほしくて頑張っても『意味がない』。母に伝えたくて、一生懸命に話しても、全て『意味がない』で切り捨てられました」
月野さんは次第に、母親に本当のことを話さなくなっていった。当たりさわりのない面白い話を作りあげて、それを気遣いながら話すようになった。そして、悲しい、悔しい、寂しいという負の感情を封印した。
「兄の苦しみに比べたら、大したことないことだと思ったからです。頑張っても『意味がない』と言われるのに、私が負の感情を口にするなんて許されないこと。母に嫌われるような気がして怖かったんです」
やがて兄が卒業すると、月野さんの小学校生活は一気に平和になった。
しかし中学に行っても兄のいじめは続いているようで、たびたび母親は泣いていて、いつも兄はうつむいていた。
ある日、月野さんが英語塾に行くと、ノートに蛍光ペンで「バカ」と書かれてあることに気づいた。すぐに兄の仕業だと分かった月野さんは、猛烈に怒りが込み上げてきた。帰宅すると、仕返ししてやろうと思い、兄の部屋に忍び込む。
すると壁に一枚だけ、賞状が貼り付けてあることに気づく。それは漢字大会の賞状で、1年生の1学期にもらった物。月野さんの小学校では、漢字大会と計算大会が毎学期あり、成績優秀者に小さな賞状が贈られる。月野さんは6年間で20枚ほどもらい、机の引き出しに仕舞い込んでいた。
「漢字は得意なんだ。いっぱい練習したら覚えられるよ。小学生になったら教えてやるよ」
かつて誇らしげに言っていた兄の姿を思い出すと、月野さんは涙が溢れて止まらなくなった。(以下、後編に続く)
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ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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