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「巨大戦艦があれば米軍に勝てる」と信じていた…世界最大の「戦艦大和」を極秘裏に造り始めた日本海軍の大誤算

プレジデントオンライン / 2024年8月24日 8時15分

建造中の戦艦大和(写真=大和ミュージアム所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

なぜ日本海軍は世界最大の戦艦大和を建造したのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から、2人の対談を紹介する――。

■「艦隊派」と「条約派」による主導権争い

【保阪】これまで海軍の通史において、軍令部令改正のことは詳しく論じられてこなかったように思うのですが。

【半藤】おっしゃるとおり、あまり重要視されていませんね。五・一五事件について力を入れて書く人は多いのですが、軍令部令改正はたいがい素通りなんです。

すでに触れたとおり、新しい「軍令部令」と「海軍省軍令部業務互渉規程」が制定されたのは昭和八年(一九三三)九月二十六日。同年十月一日から施行されました。

斎藤実首相は、「明治以来の伝統を変更するのは面白くない」とこれを批判し、鈴木貫太郎侍従長は「現状維持がよい。参謀本部と同様にするのは海軍にとって危険を伴う」と言って警鐘(けいしょう)を鳴らしていた。つまり海軍の長老二人は猛反対だった。それを押して艦隊派が強行したわけです。軌を一にして人事も入れ替わった。

海軍省の寺島健軍務局長は九月十五日付で局長を辞めさせられて練習艦隊司令官となりました。後任は吉田善吾です。おなじく井上成美軍務課長は、九月二十日付で横須賀鎮守府に異動となって、十一月十五日に練習戦艦「比叡(ひえい)」の艦長となって外に出されてしまった。後任の軍務課長は阿部勝雄(かつお)です。

ついでに言うと、山梨勝之進が予備役になったのが昭和八年三月、左近司政三が昭和九年三月、堀悌吉は昭和九月十二月、という具合に、軍令部令改定を契機に邪魔者は全部おさらばと、こういうふうになったのですね。一気に海軍を艦隊派が制したわけです。念のために申しますが、予備役・後備役への編入は、会社でいえば退社、クビと同義です。

■海軍軍令部の大変革

【半藤】これ以後どういうことになったかということが大事なのですが、海軍大臣の選任は、前任者が後任者を推挙して、その上で伏見宮軍令部総長様の同意を得なければいけないということになりました。

海軍省の高級人事、軍務局長や課長なども伏見宮様の同意がないと任命できない。連合艦隊司令長官も、というのが不文律になります。これが要するに昭和八年から九年にかけての、海軍内部の大変革でありました。海軍善玉論の文脈のなかでは、海軍軍令部令改定はまったくと言っていいほど触れられて来なかった。

しかし、これこそが重要なターニングポイントだったのです。

それに伴って軍令部から艦政本部に、「新型戦艦の基本計画」というものが提出されたのが昭和九年十月。軍艦は艦政本部というところでつくるのですがね。「戦艦大和」という名前こそまだついていませんが、その計画というのは、簡単に言うならバカでかい軍艦を四隻つくるというものでした。

もう海軍は、ワシントン軍縮条約、ロンドン軍縮条約などには縛られないぞ、と。それらを破棄し桎梏(しっこく)から脱出し建艦に邁進する、今後は自由にやっていくぞ、ということを決めたわけです。

■大和型戦艦建造計画を担当した技術将校

【保阪】建艦のことについては、福田啓二がしゃべっていますね。福田啓二は艦政本部で、大和型戦艦建造の基本計画主任となった人です。

昭和一二年から各国海軍の無制限製艦競争が始まる形勢にあったが、我が国は到底量を以ってしてはアメリカに追随出来ないので個艦性能の著しく優れた超大型艦を造ってアメリカをノックアウトしてやろうと云うのが狙いであった。それで主砲は断然一八吋(インチ)砲を採用した。我が建艦の途中でアメリカが気付いて真似をしても五ヶ年位は我方が優位を保ち、且つアメリカはパナマ運河の制約を受け、一八吋砲多数を搭載する大艦を造ることが出来ないと云う点で我に分があった。

たしかに福田のような技術将校としてはこの上ない面白い仕事だったとは思います。腕まくりして建艦に当たった感じが伝わってくる。

【半藤】私はこの人に会っているんです。昭和三十年(一九五五)の文藝春秋十一月号に福田啓二名の手記、「戦艦大和いまだ沈まず」が載っていますよ。私が聞き役になっています。福田啓二はまさに戦艦大和の基本設計の大元締めでした。福田の話で私はいまでも覚えていることがあるんです。

当時航空本部長の山本五十六が福田のもとに来て、「一生懸命やっている君たちに水を差すようで悪いが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空が大事で大艦巨砲はいらなくなるんだよ」と言ったというのです。

エネルギーが石炭から石油に変わることを見越していた山本五十六はすでにその頃から、つぎの戦争の主力は航空機、航空戦が戦いを制するということを確信していたのです。

■「完成すればアメリカ軍に勝てる」という確信

【保阪】戦艦大和の設計には軍令部がかなり注文を出していたようですが。

【半藤】実はね、戦艦大和建艦を提起したのは石川信吾なんです。石川信吾という人は五・一五事件の前年の昭和六年に、「大谷隼人」というペンネームで「日本之危機」という題の論文を書いて出版しているのです。このときは軍令部第二班の参謀でした。

なぜペンネームにしたかというと、海軍士官が著書を出版するには海軍大臣の許可が必要だったからです。要するに石川は正式な手続きを経ずして持論を出版した。それもそのはず、その内容たるや「アメリカとの戦争は避けられないものであり、アメリカに対抗するためにも満蒙占領が重要」であるという過激なものでした。

さらに図に乗って昭和八年、このときは中佐で第六戦隊参謀の職にあったわけですが、「次期軍縮対策私見」という対米強硬論を海軍上層部に提出して、ここで語ったように超大型戦艦の建造を提言したというわけです。その内容は、軍縮条約からは早く脱退し、でかい船をつくったほうがいいという主張でした。

これに艦隊派の提督、軍令部の高橋三吉と嶋田繁太郎が乗っかった。いずれにしろ、戦艦大和が完成すれば日本海軍はアメリカに勝てるという確信を、艦隊派が持ってしまったことは事実なんです。

試験航行中の戦艦大和
試験航行中の戦艦大和(写真=Naval History and Heritage Command/PD US alien property/Wikimedia Commons)

■「造船に関しては素人と変わらないような一佐官の私見」

【半藤】石川はこんな具合に得々と喋っています。

ワシントン会議において、主力艦の排水量を三万五千屯に制限したのも、アメリカ自身の国防上の見地から、パナマ運河を困難なく通過し得る最大の型にこれを制限したものである。このことは反面逆にアメリカ海軍軍備上、パナマ運河が大きな欠点であることを示すもので、ロンドン条約廃棄後の日本海軍の軍備は当然この弱点を突かなければならんと思った。

戦後になってまで、ずっと得意だったのでしょうね。

【保阪】石川信吾はこうも語っています。

当時横須賀航空隊の大西瀧治郎中佐は航空万能で主力艦不要論を翳(かざ)し、真っ向から反対して来たが、私は貴説は飛躍しすぎて尚早なりとしてこれを退けた。私はこの新造戦艦案を置き土産(みやげ)にして軍令部に残して転任したが、これが基になって、後日戦艦大和武蔵が実現した。

「尚早」どころか、もはや大艦巨砲の時代は終わりをつげ、航空戦が戦いを制する時代が目前だったというのに……。

【半藤】要するに「大型戦艦着想の起源」とは、造船に関しては素人と変わらないような一佐官の私見だったんですよ。パナマ運河を通れないようなバカでかい船を造って、「一八吋砲」をのせたらいいなどという主張は。そうすればパナマ運河を通らざるを得ない米国戦艦より大きな戦艦になるので勝てるというわけです。まことに単純。

■時代は艦隊決戦から、航空戦力に移行していたのに…

【保阪】建艦の雄、イギリスにも当時そういう着想はあったのですか。

【半藤】ないです。なんにもない。日本の独創なんですよ。

【保阪】「八八艦隊計画当時一八吋砲を計画し既に実験ずみであった」ので簡単だとか、石川はいっていますね。

【半藤】いま想像するのは難しいのですが、砲弾だけで、その大きさは私の背丈ぐらいある。一メートル八〇センチくらいあります。広島県呉の大和ミュージアムにいくと、十分の一の大和がありますよね。十分の一で二六メートルですよ。本物は全長二六〇メートルですから。なにしろものすごくでかい。

【保阪】昭和十一年十二月に開かれた第七十回議会では、大和、武蔵の巨大戦艦と、航空母艦の翔鶴(しょうかく)と瑞鶴(ずいかく)をふくめ艦艇七十隻の建造予算が成立しています。翌年の昭和十二年から建艦競争に入るわけですね。

【半藤】実際、どんどん造り始めていくんです。それについて戸塚道太郎がこう言っています。

航空本部教育部の大西瀧次[ママ]郎大佐は新艦型につき強硬なる反対意見であって、頭からそんな馬鹿なものはよせと言って相手にしない。当時飛行機は未だ決戦兵力ではなく、補助兵力たるの域を出なかった。列国海軍いずれも海軍軍備の中心は戦艦であった。……今日から結果的に見れば、大西大佐に実に先見の明があったと云うことになるが、当時の世界情勢は実はそうではなかった。

昭和八年のこのとき、海軍中央は航空兵力の重要性にまだ気付いていなかったのも事実なんです。

戦闘機
写真=iStock.com/akajhoe
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/akajhoe

■造ってしまったら「戦えない」とは言えない

【保阪】想定していたのは大艦巨砲による艦隊決戦だったのですね。

【半藤】そうです、そうです。そして巨大戦艦を拵(こしら)えてしまったら……。

【保阪】仮想敵国との関係が悪化して、追いつめられれば、もう戦争せざるを得なくなってきますよね。

【半藤】そういうことです。

【保阪】巨額の予算を獲得して造っていったとなると、いざとなって、陸軍から「お前たちは予算をとっただけで何もできないのか」と責められたらもう引き下がることなどできなくなってしまいます。

【半藤】「戦えない」などとは言えませんねえ。けれども当時、超弩級(ちょうどきゅう)の戦艦を造っていることなど、私たち国民はまったく知りませんでした。戦争中も聞いたことがなかった。

【保阪】伏せられたのですね。

【半藤】もし広く国際的に発表したのなら、「防御兵器」として効力を発揮した可能性がある。それを考慮に入れたならば、隠すのではなくてむしろ公表すべきでした。

【保阪】抑止力になったということですね。

【半藤】ところがひた隠しに隠した。隠すことなど無意味だったのに。

【保阪】なんで秘密にしたのでしょうねえ。アメリカは知っていたのですか。

【半藤】いや、アメリカは知らなかった。戦争の終盤にいたってようやく気がついたようですが。

■明治以来の技術の結晶

【保阪】福田啓二が、大和と武蔵、信濃沈没の原因を語っています。

沖縄突入作戦のとき大和を襲撃した飛行機数は延べ一、〇〇〇機に及び、武蔵の場合の一五〇機以上に比べて格段に多い。命中魚雷数において武蔵の場合には二十本(右舷(うげん)に七本、左舷に一三本)なるに対し、大和の場合は一二本(右舷に一本、左舷に一一本)であった。大和の被害は武蔵に輪をかけたほどで、艦尾の無防禦部も殆ど浸水したらしい。従って武蔵の如く艦首沈下の状態は起こさなかった。武蔵や大和があれだけの攻撃に耐えたと云うことはむしろ驚異である。

二艦とも活躍の場面はなかったというのに、なかなか沈まなかったことを誇らしく語っているのです。

【半藤】まあ、そうはおっしゃいますが、明治以来ずいぶん長いあいだ日本海軍は戦艦を他国から買っていたわけですから、福田啓二のような技術陣はそう言いたくもなるのです。明治末から長年培ってきた造船技術を注ぎ込んだ結晶ですからねえ。

【保阪】しかし戦備・戦力として使わずにおいて、出て行ったのは敗戦ギリギリのタイミングでの沖縄特攻。最初から沈められることはわかり切っていた海上特攻でした。ここにいたるまで使わなかったのはなぜなのでしょうか。そこがわからない。

【半藤】じつは使うチャンスはあったのです。ガダルカナル戦に投入しようじゃないかという判断はあり得た。だけど残念ながら、油がなかったんですよ。

沈没船
写真=iStock.com/Lutya
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Lutya

■戦艦大和が温存され続けた背景

【半藤】南太平洋にあった海軍の拠点、トラック島に大和も武蔵も勢揃いしていたのですが、そこからガダルカナルに突っ込んでいこうというときに、積んでいく石油がトラック島になかった。大和は停まっていても、油を毎日五〇トンも食う。座っているだけでも電気を消耗しますから。

【保阪】停電にしておくわけにはいかないのですか。

【半藤】火薬庫や弾薬庫があるのでそれを冷やすために冷却装置だけは動かしておかなければいけないんです。それに三千人もの乗組員が乗っているから艦内生活のためにも油が必要。航空参謀の源田実(みのる)が「世界三大バカ。それは万里の長城、スフィンクスそして戦艦大和だ」と言ったそうですがね(笑)。

【保阪】この頃、斎藤実内閣時代の陸軍省の担当主計官は、後に総理となる福田赴夫(たけお)でした。福田赴夫の『回顧九十年』に開戦前、二・二六事件の頃のことがでてきます。「軍人からは軍刀で脅されたこともあれば、お世辞を言われたり、ネコなで声で丁寧に陳情されたこともある」と。

予算を組むときにはそういうことがあったと書いていました。ひょっとしたら海軍補充計画予算の獲得に動いた石川信吾も、それに近いようなことをしたのではないか、と思ったりしたのですが。

■大蔵省の予算査定を通過させた悪知恵

【半藤】そうかもしれません。大蔵省への掛け合いについても石川は能弁なんです。こんな自慢話をしています。

五・一五事件の後斎藤内閣が出来て、高橋蔵相は留任したが海軍補充計画による予算が大蔵省で査定されて一つも通らない。私は兼ねてから大蔵大臣秘書の上塚司(うえつかつかさ)氏を知っており、同和クラブで数回会食し、日本の大陸政策と造艦計画などに就いて話をしたことがあるので「石川参謀一つ大蔵省に掛け合ってくれ」と云うことになった。以前、私が独断森恪(かく)書記官長に臨時軍事費を掛け合った時は越権なりとお灸(きゅう)をすえておきながら、随分勝手なものだと思ったが、背に腹は代えられぬので、上塚秘書を訪ねてその必要なる所以を力説した。かねてからその積もりで教育してあったので理解が早い。秘書は一項目毎に私の説明を聴くと大臣の処へ伝えに行った。大臣は主計局長と共にその説明を聴いたが全部通った。

「必要なる所以を力説」というのは、おそらく脅しにちかいものだったのではないでしょうか。ガンガン言ったのではないかな。

半藤一利、保阪正康『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)
半藤一利、保阪正康『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)

【保阪】福田赳夫にいわせると、「俺たちは防衛を担っている。そのカネじゃ防衛の責任は持てない」と。彼らはそれを必ず言ったとありました。

【半藤】蔵相秘書を日頃飲ませて「教育してあったので理解が早い」などと、厚顔にも平気で喋っている。

【保阪】呆れてしまいます。海軍はこうした秘密を昭和三十年代に当事者から聞きだして、そして隠した。そういう知恵があった。

【半藤】このあたりは「善玉」ならぬ「悪知恵」海軍というべきかもしれません。

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半藤 一利(はんどう・かずとし)
作家
1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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(作家 半藤 一利、ノンフィクション作家 保阪 正康)

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