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日本海軍の「最終兵器」だったのに…世界最大の戦艦大和が「勝算のない特攻作戦」に駆り出された残念すぎる理由

プレジデントオンライン / 2024年8月25日 8時15分

戦艦「大和」(「日本の軍艦」より)=1941年10月 - 写真=時事通信フォト

太平洋戦争末期、戦艦大和は沖縄への水上特攻作戦の途中で、米軍機の攻撃を受けて沈没した。なぜ大和は無謀な特攻作戦に利用されたのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から、2人の対談を紹介する――。

■アメリカは日本の戦力を過大評価していた

【半藤】昭和二十年三月十日未明の東京大空襲を皮切りに、B29の大群の日本本土焼尽夜間攻撃が始まります。三月十日夜の無差別攻撃だけで、東京市民の死者は八万九千人。私は猛爆撃の下を逃げに逃げて、辛うじて九死に一生を得ました。この作戦を発案し実行したのがアメリカ第二〇空軍司令官カーチス・ルメイ少将です。

【保阪】そのルメイに、あろうことか日本政府は昭和三十九年に「勲一等旭日大綬章」という最高の勲章を贈りました。決定したのは第一次佐藤栄作内閣。推薦したのは防衛庁長官だった小泉純也(元首相小泉純一郎の父)と外務大臣椎名悦三郎です。水面下でルメイへの授勲を運動したのは、当時参議院議員だった源田実だと言われています。

【半藤】これにはまったく開いた口が塞がりませんね。

【保阪】アメリカの戦略爆撃調査団の報告資料を読んでいて気づいたことですが、アメリカは、日本の戦力を途中から過大評価するようになるのです。初めは舐めてかかっていたのですけど、これだけ激しい抵抗ができるということは、自分たちが掴めていない戦力をどこかに隠しているに違いないと思うようになる。傍受によって知り得たさまざまな数字も実は見せかけのもので、本当の数字は隠しているに違いないと。それが過大評価につながっていきました。日本の力を誤解するようになっていたのです。

■温存は海軍の恥…戦争末期に浮上した「戦艦大和」の問題

【半藤】アメリカの誤解。それを決定的にしたのが昭和二十年一月に始まった硫黄島の戦いだと思います。数日で占領するつもりだったのに予想外の激しい反撃にあって二万一千人を超える死傷者を出すにいたってしまう。太平洋戦争中屈指の大激戦を経て、「日本の力を見くびってはたいへんだ」という認識になった。これが過大評価につながったのではないでしょうか。

さて、アメリカ軍の本土上陸間近となると、海軍中央では、巨額の国費をつぎこんでつくった戦艦大和をどうするかという問題が浮上するんです。

万が一賠償金代わりに取り上げられるようなことになったら海軍の面目が立たない。そこで、本土決戦に備えて陸に揚げて砲台の代わりにしたほうがいいという意見まで出てくる。そこで軍令部にいた強硬派、殴り込みの好きな神重徳が沖縄特攻に出すことを猛烈に主張した。

【保阪】大和を温存して負けたとあっては海軍の恥だ、というような意見もあったようです。まったく成功の算がないのに大和の出撃が決まってしまいました。

【半藤】ですから、昭和十九年十二月に第二艦隊司令長官となった伊藤整一は、大切な将兵のたくさんの命をそんな無謀な作戦で失うわけにはいかない、とこれに抵抗したんです。

■大和特攻「天一号作戦」が決まった異例の経緯

【半藤】大和特攻について『小柳資料』では、昭和二十年八月、軍令部勤務から第五航空艦隊長官となった草鹿龍之介中将が、まことに重要な証言をしています。ポイントはふたつ。ひとつ目は、作戦決定の経緯です。機微に触れる内容を、つぎのようにしゃべっています。

すると日吉から電話が掛かって来て「大和以下の残存艦艇(大和、矢矧(やはぎ)、駆逐艦八隻)を沖縄に斬り込ませることに決まったが参謀長の御意見はどうですか、豊田長官は決裁ずみです」とのことであった。

実は第二艦隊の使用法に就いては、私はかねがね非常に頭を悩ましていた。全軍特攻となって死闘している今日、水上部隊だけが独りノホホンとしている法はないと主張するものもあったがまぁまぁと押さえていた。何れは最後があるにしても最も意義ある死所を与えねばならぬと熟慮を重ねていた際とて、この電話を受けたときはぐっと癪(しやく)に触[障]って「長官が決裁してからどうですかもあるものか」となじると「陛下も水上部隊はどうしているかと御下問になっています」と云う。「決まったものなら仕方ないじゃないか」と憤慨はしたが、更に悪いことには鹿屋(かのや)から第二艦隊に行って長官に引導を渡してくれと云う。この特攻隊が途中でやられることは解り切っている。それをやれと云うのは真に辛いことである。

伊藤第二艦隊長官には既に覚悟は出来ていると思うが、これは真に止むに止まれぬ非常措置であるから、萬が一にも心に残るものがないよう喜んで出撃するよう参謀長から決意を促して貰いたいと云うのである。

黒煙をあげて沈没する戦艦大和
黒煙をあげて沈没する戦艦大和(写真=Naval History and Heritage Command/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■天皇から「水上部隊はどうしているか」と問われ…

【半藤】草鹿は名を伏せていますが、電話をかけてきた連合艦隊司令部の人間とは、神重徳大佐です。神重徳は渋る草鹿を説得するため、この決定に天皇の発言が影響したことを口にしている。現場の指揮官にとって、これはもう有無を言わせないひと言でした。

私はこのときの連合艦隊司令長官、豊田副武に聞いたことがあるんです。豊田も、「自分も当初は渋ったんだ」と言っていました。実は、軍令部総長の及川古志郎大将が、沖縄戦の直前に上奏したときに、お上から「水上部隊はどうしているか」と問われ、「もちろん出します」と答えてしまったために、出さざるを得なくなってしまったという。このことについて、当の及川古志郎は一言も書き残していませんがね。

【保阪】及川が天皇の意思を忖度(そんたく)してしまったということでしょう。宇垣纏は、自分はそう聞いたと書いているというのですが、確認はとれていない……。

宇垣は昭和二十年二月に第五航空艦隊司令長官に就任して、沖縄戦での航空総攻撃作戦、「菊水作戦」を指揮することになりました。こうして見ると、神重徳は大和特攻の理由づけのために、この天皇の言葉を都合よく利用した可能性もあります。けれど、草鹿はこの決定についてトップの決定以前に本当に知らされていなかったのでしょうか。

■第2艦隊・伊藤整一長官がどうしても「確約」をとりたかったこと

【半藤】大和特攻の決定が、連合艦隊の参謀長だった草鹿の、留守中に決まったことはどうも本当らしいです。私にも本人がそう語りました。

【保阪】事実とすれば組織としてきわめて異常ですね。

【半藤】参謀長に相談なしなんて、おっしゃるとおり異常ですよ。

【保阪】草鹿は大和の最後についても、とても大事なことをしゃべっています。

伊藤[整一]長官はいつもの温顔で聞いていたが「連合艦隊司令部の意図はよく解った。ただ長官の心得として聞いておきたいことは途中損害のためこれから先は行けなくなったと云うときどうすればよいのか」と聞かれたので「そのときこそ最高指揮官たるあなたの決心一つじゃありませんか。勿論連合艦隊司令部としてもそのときには適当な処置をとります」と答え、私のミッドウェー敗戦のときの体験を話した。伊藤長官には安心の色が見えニコニコして「よく解った、気持ちも晴々した」と言ってあとは雑談に入った。

半藤さん、この証言はどう思われますか。

【半藤】まさにここがふたつ目のポイントでして、注意を要するところだと思います。額面どおり受け取るわけにはいかないでしょうね。というのは戦況が極まってしまったときの判断について、伊藤整一中将が「これから先は行けなくなったと云うときどうすればよいのか」と尋ねたことになってしまっている。要するに自らの意見はないまま、草鹿に尋ねたと。これは事実とちょっとニュアンスが違うんです。伊藤さんは「そのときは俺が自分で判断したい。それでいいな」と言い、草鹿は、やむを得ないと認めたにすぎないのです。

■特攻なのに…燃料はほぼ満タン、食料をたくさん積み込んだ

【保阪】草鹿さん、「伊藤長官は安心の色が見えニコニコして『よく解った、気持ちも晴々した』と言って」などと少々芝居がかったような言い方をしていますね。

伊藤整一長官
伊藤整一長官(写真=遊就館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

【半藤】このときに同席していた連合艦隊参謀の三上作夫(さくお)は、自分も大和に同乗させてくれと言ったら、伊藤は認めないんです。三上が私にそうハッキリ言いました。伊藤は新任の士官などを出撃前に退艦させたりしておりますから、これも、無意味な作戦に巻き込まない配慮であったかもしれません。

【保阪】伊藤は教育畑が長かったから、あるいはそうかもしれませんね。大和は軽巡洋艦矢矧と駆逐艦冬月(ふゆづき)、涼月(すずつき)、朝霜(あさしも)、初霜(はつしも)、霞(かすみ)、磯風(いそかぜ)、雪風(ゆきかぜ)、浜風(はまかぜ)を引き連れて、昭和二十年四月六日に山口県の徳山沖から出撃します。

僕は以前に調べたことがあるのですが、大和は当初、燃料を特攻機とおなじように片道分だけしか搭載されない予定だったのが、それでは死ねと言っているようなもので忍びないと、呉の鎮守府の燃料参謀が必死で石油をかき集めたという。その甲斐あって大和の燃料タンクはほぼ満タンになったそうです。

【半藤】乗組員の死出の門出を飾るのに、腹いっぱいにさせなくてはならないと、糧食もたくさん積んだそうですよ。

■伊藤長官は異例の「作戦中止命令」を下した

【保阪】しかし沖縄には遠く及ばず、九州坊ノ岬(ぼうのみさき)沖で、何百機という米艦上機の攻撃によって、まず浜風が轟沈(ごうちん)。そのほかの艦も航行不能になる。海上に残っていたのは、傾きはじめた大和と駆逐艦四隻でした。

【半藤】この時点で、伊藤が「作戦中止命令」を出します。「有為な人材を殺すことはない」と総員退艦を命じました。そして自分は長官室に入って内側から鍵をかけ、大和と運命をともにすることになる。

【保阪】もしこのとき「作戦中止命令」が出されていなければ、残りの艦は大和から海に投げ出された乗員救助をする間もなく、沖縄に向かわなければならなかったわけですね。そうなれば、副電測士として大和に乗船していた吉田満少尉も助からなかったことでしょう。大和の乗組員だけでなく残りの艦もほとんどの乗組員が戦死していたはずです。

【半藤】「作戦中止命令」を受けて駆逐艦の四隻が海上の生き残りをどんどん拾い上げて、佐世保に帰ってきたんです。呉の大和ミュージアムに問い合わせて確認しまして、今日はメモをもって来たのですが、大和の乗組員は三千三百三十二人、そのうち戦死者が三千五十六人。したがって生存者は二百七十六人にすぎません。その他、沈没した矢矧などの乗組員が三千八百九十人で、戦死者が九百八十一人でした。

米軍の攻撃を受ける大和
米軍の攻撃を受ける大和(写真=Naval History and Heritage Command/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■巨費を投じた「戦艦大和」の最期

【保阪】大和の戦死者は全特攻隊戦死者数より多かった。いずれにしても伊藤の「作戦中止命令」のおかげで三千人以上が助かった計算になります。あの吉田満の『戦艦大和ノ最期』も生まれていなかった。大和がいよいよダメだとなったときに、最終判断する権限は自らにありと伊藤長官があらかじめ念を押していたことが、これを可能にしました。それはまことに重要な一手でした。

それにしても、戦艦大和の建造にかかった金額は、単艦金額で二億八千百五十三万六千円、現代の価格にしてじつに二千八百六十一億八千二十二万三千円だそうです。これだけのカネをかけて造って、あんな最期はないだろうという感じはしますけどね。

【半藤】それはもうおっしゃるとおりで、あの巨砲も、レイテ沖海戦でアメリカの護送空母群と偶然に遭遇して百発撃ったといわれていますが、けっきょく一発も当たらなかった。レイテ沖で大和の砲撃をじっさいに見たアメリカ人軍人の話を聞いたことがあります。その人はクリフトン・スプレイグ提督。レイテ沖海戦では護送空母部隊の司令官でした。取材したのはアメリカのサンディエゴでした。

■幻に終わった戦艦同士の日米対決

【半藤】スプレイグさん、「ミスター・ハンドウ、これはすごい見物だった」と言うじゃありませんか。着弾の色が違うのですって。長門(ながと)は赤、大和は青といった具合で、まるでテクニカラーの映画を見ているようだったと言っていました。砲弾は、列車が頭の上を通るみたいにブワワーッ、ドーンと轟音がして落ちたと。

このときアメリカの空母は商船を改造した護送空母ですから装甲がほとんどない。もし命中していたら空母はみんなイチコロだったであろう、とも言っていましたね。しかし大和の砲撃は一発も当たらなかった。かろうじて米空母に当たったのは、巡洋艦の二〇センチ砲弾だけだったそうです。

【保阪】いずれにしても、草鹿龍之介のお涙ちょうだい風の語り草では、どうもこれ、壮大な……。

【半藤】『平家物語』になってしまいます。

【保阪】滅びるつもりなら三千人も乗せていくことはなかったではないか、とつい言いたくもなってしまう。

半藤一利、保阪正康『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)
半藤一利、保阪正康『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)

【半藤】アメリカ側は大和が出撃したことはすぐ知るわけですね、潜水艦が見つけましたから。司令長官のマーク・ミッチャー中将が全軍突撃を命じると、護衛戦艦部隊の司令長官が、「せめて最後の合戦ぐらい戦艦同士で撃ち合いたい。頼むからやらせてくれ」と申し出たそうです。アメリカにもそういう大艦巨砲主義者がいたんだね(笑)。アイオワやミズーリといった戦艦部隊が九州坊ノ岬沖に向かうのですが、飛行機部隊が待ちきれずに攻撃してしまったので、間に合わなかった。しかし撃ち合いたかったでしょうね。

【保阪】そうなったら大和の最期としては、もう少しおさまりがよかったようにも思います。

【半藤】もしかしたら「敵戦艦二隻撃沈!」なんていうこともあったかもわかりませんな。

【保阪】リングに上がって殴り合うようなものですからね、できればそういう終わり方をしてほしかったと思った海軍関係者は多かったと思います。

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半藤 一利(はんどう・かずとし)
作家
1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。

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保阪 正康(ほさか・まさやす)
ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。

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(作家 半藤 一利、ノンフィクション作家 保阪 正康)

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