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だから「感動の押し売り」と批判されてしまう…46年前の第1回「24時間テレビ」にあって現在の放送にないもの

プレジデントオンライン / 2024年8月31日 8時15分

「24時間テレビ 愛は地球を救う」大橋巨泉さん(左)と会見=1978(昭和53)年4月28日、東京都千代田区の日本テレビ - 写真提供=共同通信社

今年で47回目となる「24時間テレビ 愛は地球を救うのか?」(日本テレビ)が8月31日、9月1日に放送される。社会学者の太田省一さんは「24時間テレビは、46年前に放送された第1回という原点を改めて考えるべき時期にきているのではないか」という――。

■「テレビ局ごときが」と言われた第1回の『24時間テレビ』

8月31日(土)から9月1日(日)にかけて放送される日本テレビ『24時間テレビ』は、例年とは様子が違っている。系列局の不祥事を受け、大幅な見直しが進められているからだ。

タイトルの「愛は地球を救う」が「愛は地球を救うのか?」に変わったのもそのひとつ。では『24時間テレビ』とはそもそもどんな番組だったのか? 46年前の1978年に放送された第1回を振り返ってみたい。

「テレビ局ごときが格好をつけて福祉にかかわるのは生意気だと、しばらくは皮肉やら冷笑やらの声が聞こえてきました」(読売新聞芸能部編『テレビ番組の40年』)。

こう振り返るのは、『24時間テレビ』を企画し、総合プロデューサーを務めた都築忠彦である。

日本テレビにいた都築は、当時『11PM』の担当。『11PM』と言えば、深夜のお色気番組の草分けとして有名だ。ストリップ特集など女性のヌードが出てくることも珍しくなく、「俗悪番組」の代表として批判の的になることも多かった。また司会の大橋巨泉による麻雀や釣り、ゴルフのコーナーも人気で、深夜らしい軟派路線で人気を集めた。

■伝説のお色気番組との意外な関係

だが『11PM』にはかなり硬派な一面もあった。ジャーナリスティックな視点から、徴用工問題や慰安婦問題、沖縄問題などを扱った特集を企画。そのすぐれた内容が認められ、賞を受賞したこともあった。ここでも、元々ジャーナリスト志望だった大橋巨泉が力を発揮した。

その根底には、「本音と建前を分けずに、同一次元で見つめる」(同書)という都築忠彦のポリシーがあった。高尚なものも低俗なものも関係なく同じ目線の高さで扱うというわけである。『24時間テレビ』のコンセプトも、それに沿ったものだった。

つまり、『24時間テレビ』は、「『11PM』の拡大版」(都築の言葉)だったのである。「感動ポルノ」と批判される近年の『24時間テレビ』とは、対照的な出発点だった。

こうして、「日本テレビ開局25周年記念特別番組 テレビ誕生25年スーパースペシャル」(テレビ本放送開始からちょうど25年の節目でもあった)と謳った『24時間テレビ』の制作は始まった。

■出演を渋った萩本欽一

まず決めなければならないのは、番組の顔となる総合司会である。

ひとりは『11PM』からのつながりもあり、大橋巨泉に決まった。そしてそのパートナーとして、大橋が司会の『クイズダービー』(TBSテレビ系)のレギュラー解答者で才女の評判も高かった俳優の竹下景子が起用された。

ただしこの2人は番組全体の進行役。ほかにチャリティーの先頭に立つ人間も必要だ。そこで白羽の矢が立ったのが、当時テレビタレントとして絶頂期にあった「欽ちゃん」こと萩本欽一である。

萩本は、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系)や『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)などが軒並み大ヒット。どの世代からも愛される国民的人気者だった。日本テレビでも人気オーディション番組『スター誕生!』の司会をしていて、当然と言えば当然のオファーだった。当時37歳。

だが当初萩本は出演を渋った。実はすでに、ラジオで似たような大型チャリティー番組のパーソナリティをやっていたからである。

その番組とはニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』。目の不自由な人のために音の出る信号機を増やそうという目的で始まった。やはり年1回24時間の生放送で、萩本欽一はこのメインパーソナリティを1975年からずっと務めていた。

日本テレビ「24時間テレビ」オフィシャルサイトより
日本テレビ「24時間テレビ」オフィシャルサイトより

■なぜタモリが抜擢されたのか

それでも製作総指揮にあたった日本テレビ(当時)の井原高忠は、ニッポン放送の了承を取りつけたうえで旧知の仲だった萩本を口説きに口説いた。そして結局、萩本は出演を決意する。そのパートナーとして、『水色の時』(1975年)で朝ドラのヒロインを務め、人気若手俳優になっていた21歳の大竹しのぶもキャスティングされた。

一方総合司会ではないが、こうした「いい人」イメージのキャスティングに対して異彩を放っていたのがタモリである。

当時はまだ『笑っていいとも!』が始まる前で、タモリは毒の強いパロディ芸を得意とした怪しい「密室芸人」だった。どう見ても、チャリティー番組向きではない。だが萩本と大竹に次ぐポジションで出演した。

番組初期、タモリは事前コマーシャルにも起用された。それは、自分も権威が嫌いと公言する都築忠彦の意向でもあった。

たとえばこんなコマーシャルである。スタジオの地球儀を見たタモリがアドリブで、当時関西弁の辛口評論家として有名だった竹村健一の物まねでこう語り出す。「いま、オイルショックやらなんやらでいろいろ大変なのに、この国だけだよ、チャリティーチャリティーと言うてるのは」(『文春オンライン』2019年11月24日付け記事)。

いまなら『24時間テレビ』でこんな自己批判ともとれるCMが流されることなどあり得ないだろう。先ほどふれた『11PM』的な硬軟のバランスが、開始当初いかに重視されていたかの証しである。

■マラソンもサライも武道館でもない

こうして準備は進み、1978年8月26日、第1回『24時間テレビ』は本番当日を迎えた。断っておくが、マラソンはまだ始まっていない。また「サライ」を代表とした歌でつないでいく演出もない。それらが恒例になるのはまだだいぶ先の話である。

掲げられたテーマは「寝たきり老人にお風呂を! 身障者にリフト付きバスと車椅子を!」というものだった。メイン会場は日本武道館ではなく、東京の郵便貯金ホール(当時)から始まった。そこで、当時人気絶頂だったピンク・レディーが番組テーマソングを披露。進行役の大橋巨泉と竹下景子は日本テレビ(当時は東京の麹町にあった)のGスタジオに陣取った。

日本テレビ旧本社
日本テレビ旧本社(写真=本屋/GNU Free Documentation License/Wikimedia Commons)

反響は、予想をはるかに上回るものだった。日本テレビに設置された募金受付用の回線には合計189万本もの電話が殺到。そのうち通じたのは、7万本程度であったという。間違い電話も続出し、番組中で謝罪せざるを得ないほどだった(『NEWSポストセブン』2015年8月22日付け記事)。最終的な募金総額は11億9000万円あまり。これは2011年に破られるまでの最高記録である。

この時ならぬ募金熱の中心にいたのが、やはり萩本欽一だった。番組中、萩本と大竹しのぶは揃って東京のさまざまな場所を訪れた。2人の周囲には、直接募金を手渡ししたいと集まった人びとであふれかえった。

■聖火台に火をつけた「まさかの芸人」

そして24時間にわたる放送の最後を飾る「グランドフィナーレ」。場所は東京・代々木公園につくられた特設ステージである。会場にはテレビを見ていた視聴者がどっと詰めかけた。外の歩道橋のところにまでひとが鈴なりになっている。推定2万人あまり。

番組テーマソングが流れるなか、「お客さん気をつけてください」というスタッフの大きな声が鳴り響く。ステージ上の萩本欽一と大竹しのぶは、黄色の番組Tシャツを着てにこやかに手を振っている。進行役の徳光和夫によってステージ中央に呼び寄せられた2人は、何度も「ありがとう」と感謝した。

24時間のあいだに印象に残ったことを聞かれた萩本と大竹は、こう語り出す。明日、目の手術をするという女の子と出会った。その女の子は手術が成功して目が見えるようになったら「最初に欽ちゃんの顔が見たい」と言った。2人は観客にも呼びかけ、一緒に女の子へ激励の拍手を送る。そしてこの時点で募金がすでに3億8500万円を超えたことが、スタジオにいる大橋巨泉から報告された。

するとそこにタモリが登場。サングラス姿のタモリは、聖火のトーチをかかげて大勢の観客をかき分けながらステージ横に設置された聖火台へ。そして点火となった。

代々木公園がオリンピックゆかりの場所だという理由はあるが、ランナーがサングラス姿のタモリなのである意味ちょっとふざけているようにも見える。それでもタモリは照れる様子もなく「点火しましたー」と宣言した。

■日テレを動かした高校生のひと言

その後、萩本と大竹は、ステージから降りて観客にインタビューし始める。ここでもみな手に貯金箱や小銭の入ったビン、現金を持っていて2人に渡す。なかには持ちきれない萩本のズボンのポケットにねじ込むひとも。そういう人があまりに多いので、タモリも手伝っている。

徳光和夫をはじめ、全国系列局からのリポートでは、障害のあるひと自らが募金を持参してきたことが繰り返し報告される。お金を渡そうとしたが大人たちに押されてつぶされそうになった子どもたちをステージに上げて萩本と大竹が話を聞く場面も。そしてピンク・レディーが登場。タモリは、普段のテレビは一方通行だが、この『24時間テレビ』だと「一緒にやってるんだなあという気がする」とここは真面目に感想を語った。

そして徳光和夫が観客のところに降りていき、萩本たちへの言葉をもらおうとする。するとひとりの高校3年生の男子が手を挙げ、こう言った。

「欽ちゃんさあ、あの聖火みたいにさ、一日で消さないでさあ、もうずっと続けてよ。これ消えちゃったらつまんないじゃない。タモリもさ、頑張ってよ、これ笑いで訴えて。大竹しのぶさんも頑張って」

聖火を携え走る人のシルエット
写真=iStock.com/imagedepotpro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imagedepotpro

■そもそもは1回限りの特番だった

周囲の観客からも拍手が沸き起こる。萩本もその思いに打たれたように「よし、この火を消すのよそう」と応える。

実は、『24時間テレビ』はこの年限り、1回だけの予定だった。番組名に「第1回」という言葉はない。「日本テレビ開局25周年記念特別番組」という表現からも、そのつもりだったことがわかるだろう。

しかし、「グランドフィナーレ」の熱気、そしてこの高校生の言葉に示された観客の思いが、局の予定を変えさせることになる。

『24時間テレビ』もいよいよ終わりに近づいた頃、ステージに日本テレビ社長(当時)の小林与三次が駆けつけた。萩本欽一と大竹しのぶの労をねぎらいに来たのだ。「全国の皆さん、ありがとうございます」と言うと、会場の観客からも大歓声が。

すると萩本が、先ほどの高校生の言葉を念頭に置いてのことだろう、「また来年もやってくれって言ってますよ」と小林に言う。それに対し小林は、「何度でもやります。そういう必要がある限り、日本テレビとしてはどれだけでもやります」と思わず興奮気味に宣言したのだった。

こうして一度だけで終わるはずだった『24時間テレビ』は、毎年恒例になっていく。

■なぜ「感動ポルノ」と言われてしまうのか

いま見ても、テレビのパワーがぐいぐい伝わってくる。そんな第1回の「グランドフィナーレ」である。何よりもそれは、代々木公園に大挙詰めかけた視聴者の発散する熱気から感じられる。平均視聴率も15.6%(世帯視聴率。関東地区。ビデオリサーチ調べ)と好成績を記録した。

都築忠彦も、「『24時間テレビ』で視聴者参加型の番組をやりたかった」(『文春オンライン』前掲記事)と語る。大人から子どもまで、それぞれがそのとき出せる額を募金する。大切なのは、その行動が自発的であることだ。

近年の『24時間テレビ』に「感動ポルノ」という批判が起こるのは、逆に視聴者が“押しつけ”を感じてしまうからだろう。ではどうすればよいのか?

いろいろな考えかたはあるだろうが、『24時間テレビ』の原点に戻るということであれば、ただ真面目にというのではなく、タモリが体現したように自己批判の要素までエンタメ的に取り込んだものにすることを考えてはどうだろうか? 適度なユルさという言いかたもできる。

そうすることで、感動の押し売りといった印象も減じるように思える。真面目さと楽しさは両立しないわけではないはずだ。そのことを第1回の放送は教えてくれる。

「テレビ局ごときが」と冷笑されながら始まった『24時間テレビ』。だが「テレビ局ごとき」だからこそ生まれる、余計な体面にとらわれない自由闊達さがそこにはあった。

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太田 省一(おおた・しょういち)
社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。

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(社会学者 太田 省一)

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