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父親は「子供を食べてしまう」と決めつけられ…米大統領候補カマラ・ハリス氏が語りたがらない「暗い過去」

プレジデントオンライン / 2024年9月3日 10時15分

2024年8月22日、米イリノイ州シカゴのユナイテッド・センターで開催されたDNC大会最終日の夜、ステージに立つ副大統領兼民主党大統領候補のカマラ・ハリス。 - 写真=Laura Brett/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ

11月に行われるアメリカ大統領選挙で与党・民主党の候補となったカマラ・ハリス氏とは、どんな人物なのか。ジャーナリストのダン・モレイン氏が書いたハリス氏の評伝『カマラ・ハリスの流儀 アメリカ初の黒人女性副大統領』(彩流社)より、「第1章 シャーマラの娘 移民の子」の一部を紹介する――。

■誕生は「選挙日」のちょうど2週間前だった

カマラ・ハリスが歴史的な地位を得ることになったのが、誰か特別な人のお陰だとしたら、それは、1964年秋にカリフォルニア州オークランド市のカイザー病院で彼女を産んでくれた26歳のインドからの移民女性だ。カマラの誕生が「選挙日(*1)」のちょうど2週間前だったこと、またその誕生がカリフォルニア州だったことは、おそらく偶然ではなかっただろう。のちに成長してから、社会の進歩と容赦のない政治とは密接な関係がある、と証明することになる1人の少女にとって、この年と州は完璧な培養器となっていったからだ。

*1 アメリカ合衆国の正副大統領を決める選挙日のこと。「4年に一度、11月の最初の月曜日のあとの最初の火曜日」とされる。
現在は連邦議会の議員選挙もこれに従うので、2年に一度、設けられる。祝日とするか、特別な計らいをするかは州による。

そのちっちゃな女の子は成長して、強靱で、機知に富む几帳面な努力家で、多様な文化的背景を持った頭脳明晰な女性になった。カマラ・ハリスは間違えることはなかったし、忘れることはさらになかった。彼女には最初から政治活動の応援団となった忠実な支持者がいる。だが彼女は、一度は家族のように親しくしていた人々を遠ざけもしてきた。カメラが回っていないときには、自分の助けにならなかった人々に対しても思いやりを示し、親切に接することがあった。だが、彼女をよく知る人たちのなかには、彼女を冷たく、計算高いと見ている人もいる。

■週に一度は必ず思い出している「人生訓」

全国的な舞台で活動しているが、ハリスは個人的なことをほとんど明らかにしていない。彼女は料理することを楽しみ、よいレストランや場末の居酒屋で食事するのを好む食通でもある。ある時、私と一緒に昼食をした時に、彼女はサクラメントの州議事堂の通りの向かい側にある、カリブ海出身の家族が経営する小さな店を選んだ。ハリスは様々な香辛料の話をし、ゆっくりと食事をしたのだが、私と違って、彼女は食べた物をメモしていた。

大まかに言うと、彼女は父親よりも母親に近い娘だった。彼女の近くで仕事をする人たちによると、カマラは2009年に亡くなった母親シャーマラ・ゴーパーラン・ハリスから受け継いだちょっとした人生訓を週に一度は必ず思い出しているという。公の席で彼女が最も頻繁に繰り返すのが、「何をするにも最初にするのは構わないわ。でも忘れないでね。最後はだめよ」ということばだ。時に、彼女の人生の大事な瞬間に、母親を思い出して感情がこみ上げることもある。そんな時、自分の傍らに母親がいてくれたらと願っているのは明らかだ。

■ハリス氏の母は「インド出身の移民」

「私の母、シャーマラ・ゴーパーラン・ハリスは自然の力なのです。同時に、私の人生で最も私を励ましてくれる存在なのです」、と女性の歴史月間(*2)に自分の母親をこう讃え、さらに、「私と妹のマヤに努力することと間違いを正す力を信じることの大切さを教えてくれたのです」とツイートした。

*2 1987年に始まった慣習で、3月を歴史や文化に貢献した女性を讃える月間とした。

シャーマラ・ゴーパーランは150センチをやっと上回るぐらいの身長だった。彼女が生まれた9年後の1947年に英国からの独立を勝ち取った国インドの成功した上級官僚だった家庭の4人の子供の最年長だった。1958年、19歳でインドのニューデリーにあるレイディ・アーヴィン大学を卒業した。家政学が専攻だった。父親の勧めで、彼女はより高度で、より有意義な教育を求めて、カリフォルニア州のバークレーを訪れた。ここで栄養学と内分泌学を学んだ彼女は博士号を取得し、その後数十年で乳癌研究の分野で認められるようになった。彼女の論文は他の人の論文に100回以上も引用された。また彼女の仕事に対しての資金提供で最低476万ドルを獲得していた。

■「黒人学生の集会」での出会い

2019年に出版した自伝でカマラ・ハリスは「私の母は政治に積極的に関わることと、市民の生活で指導的立場を取ることをごく当たり前と捉える家に育った」と書いている。「私の祖父母から、母は熱心な政治意識を受け継いだのです。歴史とか、闘争とか、不平等とかに高い意識を持っていました。その魂に強い正義感を持って生まれてきたのです」

ハリス氏が幼少期に住んだ家
ハリス氏が幼少期に住んだ家(写真=Cullen328/Jim Heaphy/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

1962年秋に、シャーマラ・ゴーパーランは黒人学生の集会に出た。そこで演説したのがジャマイカ出身のドナルド・ジャスパー・ハリスだった。経済学者になることを目指していた若い大学院生だった。彼は多少過激だった。いや、経済学者たちが言うところの「異端者」だった。当時アメリカ国内の大学で好まれていた伝統的な経済学理論に固執していなかった。彼がのちに「ニューヨーク・タイムズ」紙に語ったところでは、伝統的なサリーを着たゴーパーランが、演説の後で彼の所にやって来たという。「男女の集団の中の誰と比べても、彼女はその容姿が際立っていました」。彼は魅了されたのだ。その後、数回会って話をした。そして、彼が言うには、「このこと以外は、いまや歴史です」

■インド神話の女神にちなんだ名づけ

1963年に2人は結婚した。ジャマイカが英国からの独立を達成した翌年だった。この年の11月1日の「キングストン・グリーナー」紙には、2人とも博士号の取得を目指していると報じられている。1964年にカマラ・デヴィが、そして彼女の妹のマヤ・ラクシミがその2年後に生まれた。デヴィというのはヒンドゥー教の女神の名前で、ラクシミは蓮の女神で富と美と幸運の神の名前だった。2004年に「ロサンゼルス・タイムズ」紙の記者に、シャーマラはこう語っている。娘たちの名前はインド神話から付けた。2人に自分たちの文化的独自性を保ってもらいたかったから。さらに、「女神を崇拝する文化は強い女性を生み出すの」と続けた。

1960年代の半ばから後半にかけて、カマラの親は二人とも公民権運動にのめり込んでいた。彼女は乳母車(ベビーカー)でデモ行進に連れて行かれたと語っている。彼女が乳母車でぐずると、母は自分の望むことばを言わせたという。「フィーダム(*3)」と。

*3 フリーダム=自由のこと。ここでは幼児言葉として表現されている。

■スタンフォード大学経済学部で初の黒人教授

多くの学者がそうであるように、ドナルド・ハリスも若い時には渡り鳥だった。バークレーからイリノイ大学シャンペン・アバーナ校、ノース・ウェスタン大学、ウィスコンシン大学、そして最後に1972年湾岸地区に戻りスタンフォード大学へと渡り歩いた。「スタンフォード・デイリー」紙という学生新聞には、彼の経済思想はマルクス主義だと紹介されている。正しいかどうかは別にして、古典的というわけではなかった。そのために、彼が継続的に雇用されるかは全く不明な状態だった。

1974年、彼の客員教授としての身分が終わろうとしていたときに、スタンフォード大学の経済学の教授の中に、躊躇しながらも、彼を専任教授に推挙する者がいた。急進的政治経済学連合が彼のために裏で動いていたし、この問題は「スタンフォード・デイリー」紙にも取り上げられていた。学生は250人以上の署名を集めた嘆願書を提出し、経済学部はマルクス経済学にも「公式な立場」を与え、この分野の3人の教員の身分を保証し、さらにハリスには専任の、それも終身在職権を与えるよう要求していた。

ドナルド・ハリス自身が書いているところでは、スタンフォードに残ることに関しては「特に心配も、希望もしていなかった」という。しかし、究極的にはそこに職を得て、スタンフォード大学経済学部で終身身分を得た最初の黒人教授になった。そして、1998年に退職するまで、その地位に留まったのだ。その後、現在もなお名誉教授の肩書を保持している。

■両親の離婚後に続いた「親権をめぐる争い」

シャーマラとドナルドは1969年に別居した。ドナルドがウィスコンシン大学で教えていたときで、カマラが5歳、マヤが3歳だった。1972年1月に2人は正式に離婚した。

自伝でカマラはこう書いている。「2人がもう少し年齢が上で、もう少しだけ精神的に大人だったら、きっと2人の結婚は続いていたはず。でも、2人は若すぎたのね。父は母が真面目に付き合った最初の男性だったのですもの」

2018年に書いたエッセイの中でドナルド・ハリスは離婚後に続いた親権をめぐる争いの結果、カマラとマヤとの親しい関係が「急に終わってしまった」と嘆いている。親権の調停は「カリフォルニア州が父親は子育てできない(特にこの父親の場合は、「島からやって来た黒人」だから)と決めてかかっていた」と非難している。この「ヤンキーの常識」がこの父親は「自分の子供を朝食に食べてしまう」とさえ暗示していたのだと、彼は書いている。「どうであろうと、わが娘たちへの愛を諦めはしない、と私は主張し続けた」

1973年7月23日の最終的な離婚調停ではシャーマラが2人の娘たちの実質的な親権を確保し、ドナルドは2週間ごとの週末と夏季休暇中の60日間だけ娘たちに会う権利を確保することになった。彼は娘たちをジャマイカに連れて行き、親族に会わせ、自分が子供時代を過ごした世界を見せたことについて書いている。「ジャマイカを頻繁に訪れ、そこの生活の豊かさや複雑さを見せることで、具体的に伝えようとしたのだ」

■ハリス氏と父親の「微妙な関係」

さらに、「もちろん、後になって、2人がもっと大人として理解するようになったら、『貧しい国』の経済・社会生活の矛盾を説明するつもりだった。例えば、極端な貧困と極端な富とが同時に存在している驚くべき状況などを。しかも、私自身、ジャマイカ政府と共に、この状況を何とかするべく計画を練ったり、適切な政策を立案したりと一生懸命だったのだから」と続けている。

ダン・モレイン『カマラ・ハリスの流儀 アメリカ初の黒人女性副大統領』(彩流社)
ダン・モレイン『カマラ・ハリスの流儀 アメリカ初の黒人女性副大統領』(彩流社)

父親はそうしようとしたのだろうけれど、ハリスの母親が教えたことの方がずっと影響力を持っていた。カマラは自叙伝の中で何度も母親に触れているのだが、父親に関して述べているのはわずか10ページほどでしかない。「父は良い人ですが、私たち姉妹はそれほど親しみを感じていません」と、2003年のインタビューでも語っている。

カリフォルニア州の司法長官のウェブサイトにある彼女の公式な履歴では、カマラは自身のことを「タミラン乳癌研究所の専門医であるシャーマラ・ゴーパーラン博士の娘」と述べ、その母は「インドのチェンナイから合衆国に渡り、カリフォルニア大学バークレー校で大学院の勉強を続けた」と説明しているのだが、この自己紹介文の中で父親に関してはひと言も触れていないのだ。

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ダン・モレイン ジャーナリスト
「ロサンゼルス・タイムズ」紙のカリフォルニア州の政治・司法記者として27年間、「サクラメント・ビー」紙の編集者として8年を務めたベテラン・ジャーナリスト。

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(ジャーナリスト ダン・モレイン)

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