スリップに前掛けでパチンコ機裏に待機し玉を補給…昭和20年代、女性が14時間働いた冷房ゼロの劣悪環境
プレジデントオンライン / 2024年8月29日 10時15分
■パチンコ機の裏側に待機し、玉を補給した“玉出し娘”や“裏回りの女”
昭和の時代には多くの産業が誕生し、その中でさまざまな職業に従事する人たちがいた。しかし、時代の変化や技術革新によってスキルが不要になり、今では忘れ去られた職業もある。パチンコ産業もその一つである。
このほど筆者が上梓した『パチンコの歴史 庶民の娯楽に群がった警察と暴力団』(論創社)にも、そんな失われた仕事や職業が登場する。
パチンコは終戦後、庶民の娯楽として復活した。昭和24年(1949年)頃から人気が高まり、またたく間に全国に普及した。
当時のパチンコはわずか10mmの穴に玉を1個ずつ込めて手で弾く手打ち式だった。貸玉料金は1個2円。20円で10個(当時の小学校教員初任給は3991円:出典『値段史年表 明治・大正・昭和』)。
これを自分のペースに合わせて打ち、入賞すれば玉が10個いっぺんに飛び出してくる。玉込めの速度、弾き方など本人の技量しだいで入賞する確率も違うなどゲーム性に富んでいた。
現在と違い換金はなく、玉20個でタバコの「光」、25個で「ピース」のほか、チョコレートや調味料などの景品と交換できる健全娯楽の時代だった。
ただし、弾いた玉のアウト玉や入賞した玉の補給はすべて人力に頼っていた。そうしたパチンコ店の営業を支えたのは多くの女性たちだった。
貸し玉を売る、玉と景品を交換する仕事だけではなく、パチンコ機の裏側に待機し、玉を補給する仕事もしていた。彼女たちは“玉出し娘”、あるいは“裏回りの女”とも呼ばれた。
一人の女性が10台のパチンコ機を担当し、玉がなくなると急いで台の上のタンクに補給する。うっかりすると「オイ、玉が出ないぞー」と客が声を荒らげる。機械を手で叩いたり、足で蹴ったりする客もいれば、怒りだしてパチンコ玉を上から投げつける客もいたという。
営業中は持ち場を離れるわけにはいかない。向かい合わせのパチンコ台の間の人ひとりが通れるだけの細長いハコの中で彼女たちは1日を過ごした。
夏場ともなると、ハコの中は温度が上昇し、蒸し暑くなる。まだ20歳前の女性がスリップ姿に前掛けをしただけの格好で働くことを余儀なくされた。
閉店後は粉石けんを混ぜた熱湯で集めた玉を洗い、布で水を拭き取る。翌朝はふたたび手作業で玉を台に運ぶ。作業は朝の9時頃から深夜の11時まで昼夜別なく働いていた。
300台のパチンコ店には裏回りの女性従業員を含めて35人ほどが働いていた。当時を知る広島県のパチンコ店の経営者はこう述べている。
「女性従業員はシマの中に入れられて素足で板の上を走って、そして玉を入れる。夜になると肩がこってもう女の子は手も上がらんようになる。籠の鳥じゃないが、あの中に押し込めておいてね。損したお客に怒鳴られて、冷房のない時代に大変でした」
現代からは想像できないような過酷で劣悪な労働環境の中で働いていたのだ。
彼女たちは地方からやってきた者も多かった。ほとんど住み込みで、パチンコ店の2階や寮で寝泊まりしていた。
昭和30年(1955年)代に入ると地方から集団就職列車に揺られてパチンコ店に入る女性たちも多かったという。
しかし、昭和30年代後半にパチンコ玉の補給を自動化した完全自動補給装置が誕生し、裏回りの女性たちは過酷な仕事から解放された。そして全国に普及するのにともない、女性たちの姿はしだいに消えていった。
■「軍艦マーチ」の中、叫び続けた呼び込み
消えた仕事といえば、最近は聞かなくなったのがパチンコ店の呼び込みや店内でのアナウンスもそうだ。
昭和31年頃は呼び込みのプロもいた。北海道・札幌の繁華街の薄野では開店から閉店までの間、どの店でも声を張り上げて呼び込みをやっていた。例えばこんな調子である。
「いらっしゃいませ、みなさまの日頃のご贔屓、ご来店にばっちりとお応えいたしまして、本日も大開放中でございます。パチンコのスリルと醍醐味を味わいながら楽しいひとときお過ごしくださいませ!」
「本日のご来店誠にありがとうございます。薄野、狸小路随一の娯楽の殿堂、いこいのオアシス、銀座、銀座会館でございます。当店は若い方からご年配の方にいたりますまで幅広く楽しんで遊んでいただける最新鋭の機械を取りそろえて全機全台大開放いたしております」
「ご遊技中のお客さま、多少の運・不運もございましょうが、パチンコはやっぱり粘りに粘って、お帰りのさいはドンと景品の数々をお持ち帰りくださいませ。本日のご来店誠にありがとうございます」
午前中は「軍艦マーチ」の音楽をかけっぱなしである。手にマイクを握りながらひたすら喋りまくる。しまいには声が枯れ、ダミ声をふり絞った声が店内に響く、そんな時代だった。
パチンコ玉を換金することがない時代、通勤帰りのサラリーマンもパチンコでストレスを解消し、当たれば袋に景品を詰め込んで家路に着く。そんな時代だった。
■開店準備や釘の打ち方を指導する「開店屋」
昭和20年代後半から30年代にかけてパチンコ機を製造するメーカーにも今ではいなくなった職業の人たちがいた。
全国各地を回り、パチンコ店の建設から開店の準備の指導に当たる「開店屋」と呼ばれる営業マンだ。帳簿の書き方、パチンコ機内部の釘の打ち方と調整、玉の磨き方、機械の保守、さらには店内アナウンスのシナリオ作成など、あらゆる業務を一人でこなし、指導していた。
オープン後は1カ月程度店にとどまり、機械が故障すると、その場で修理し、一人でパチンコ機を作れるほどの技術を持っていたという。機械の修理や保守は閉店後の夜中が多い。店に依頼されて夜中に駆けつけるのはしょっちゅうだった。そのためしばしば警察官から職質を受けた。当時、開店屋をしていた男性はこう語っている。
「警察官から『キサマは何者だ。ちょっと署まで来い』と言われ、たびたび泥棒に間違われました。下げているバッグの中にはハンマー、ペンチ、ブリキバサミ、ハンダ付けなどが入っている。まるで泥棒の七つ道具と間違われやすい道具類を持ち歩いていたからです。『いや、違いますよ、パチンコの機械屋です』と言っても信じてくれない。パチンコのゲージ棒を出してはじめて解放してもらいました」
また、開店当日のこんなエピソードも披露する。
「パチンコ機1台ごとに釘を調整したあと、再度、故障はないかとチェックして歩いていたときでした。何かおかしいなと思っていたら、パチンコ玉の受け皿がついていないことに気づきました。開店が数時間後に迫っており、今から取り寄せる時間もありません。考えた挙げ句、店のオーナーに『戦争中に被った鉄兜はないか、探してくれ』と言いました」
終戦後から10年に満たない時代だ。鉄兜が残っている家も珍しくなかった。オーナーが探し出してきた鉄兜を受け取り、寸法を測り、鉛筆で印をつけ、近くの鍛冶屋の所在を聞き、加工してもらい、何とか急場をしのいだ。
「鉄兜は丈夫でしてね。代用品としては最適なんです。とっさの思いつきでしたが、無事に開店にこぎつけてホッとしましたよ」
■富山の薬売りと同じようにドサ回りの日々
開店屋は1カ月店にとどまり、店の運営を見届けると、別の地方の店に出かける。富山の薬売りと同じようにドサ回りの日々を送っていた。
しかし、パチンコ機の機能の発展やオートメーション化が進展するにしたがい、彼らの仕事が不要になり、開店屋も消えていった。
ここに出てくる釘の調整とは、釘の位置や曲げ具合によって入賞して出てくる出玉を調整することであり、店の売り上げを左右する重要な仕事だった。
釘を調整し、パチンコ玉が飛ぶ方向をコントロールするその道のプロは“釘師”と呼ばれた。しかし、釘師が出玉率が低くなるように釘を調整しても、それを打ち破る客もいた。いわゆるパチプロのことである。釘師VSパチプロは漫画でも描かれた。
手打ち式の時代は左手にパチンコ玉を持ち、わずか10ミリの穴に玉を流し込みながら弾く。甘い釘を見極めて狙いをつけた穴を的に打ち込んでいく。玉を弾くスピードと流し込むリズムが重要であり、客の技量が大きく左右した。当時は1分間に130発以上打ち込むパチプロもいたという。釘を見抜いて荒稼ぎするパチプロ、それを防止しようと対抗する釘師の戦いは、パチンコ機の技術革新によって終止符が打たれる。
チューリップなど役物と称される入賞穴全盛時代から、ドラムの「7」が3つそろうと大当たりになるオール7などゲーム性が飛躍的に向上する。それらは同時にコンピュータ制御による出玉率の設定を可能にした。
パチンコ機にIC基板が埋め込まれ、入賞確率を自動的に管理する時代になった。当然ながら釘師の役割は半減し、釘の調整は従業員で事足りるようになり、職人技を持つプロの釘師はいつしかいなくなった。
出玉率をコンピュータで自動的に調整できるということは、どんなにパチンコの技量が高くても大当たりが出るか出ないかは機械しだいということになる。
パチンコ機を見ただけで入賞確率が高いかを見極めることは不可能だ。技量の介入の余地がない機械は偶然性に期待するしかない。釘を見て本人の技量で勝負することはできない。パチプロをパチンコで生計を立てている人と定義するなら、コンピュータ制御の時代になり、明らかに減少したといえる。
パチンコで稼いでいる人がいるとすれば、店内の客の出玉の状況や「サービス台」と呼ばれる入賞確率の高い機械がどれかを予想するしかない。こうなると、競馬や競輪の予想屋と変わらない。それだけパチンコの賭博性が高くなったといえるだろう。
パチンコ産業の仕事に従事した人、またパチンコで生計を立てていた人たちがいた昭和の懐かしい時代。他の産業と同じように技術革新によって今では失われた職業も少なくない。
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人事ジャーナリスト
1958年、鹿児島県生まれ。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て、独立。経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍。著書に『人事部はここを見ている!』など。
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(人事ジャーナリスト 溝上 憲文)
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