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「何しに来た?」自ら呼んだ救急隊を蹴り…それでも老母を精神病院に入れたくなかった息子を変えた悲しき事件

プレジデントオンライン / 2024年8月31日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/wsfurlan

70代の実母と義母が同じようなタイミングで認知症の症状を見せ始めた。旅行先に巨大なぬいぐるみを持参したり、自分で呼んだ救急隊員に「出てけ!」と叫んだり。娘・嫁である女性は40歳前後から50代にいたる現在まで、別人と化してしまった“母親たち”の言動に振り回され続けた――。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹の有無に関係なく、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■家族円満な南田家

中部地方在住の南田美玖子さん(仮名・50代)の父親は、上場企業で働く会社員だった。1歳下の母親は、結婚するまでは教育系の会社で働いていた。

2人は父親の姉、母親の兄の結婚の準備の際に出会い、父親の一目惚れで交際がスタート。父親23歳、母親22歳で結婚した。

専業主婦になった母親が25歳の時に兄が、30歳の時に南田さんが生まれた。両親の夫婦仲も南田さんと兄のきょうだい仲も良く、円満な家庭だった。

やがて、兄が大学入学を機に家を出て、30歳で結婚。南田さんは実家から大学に通い、卒業後は上場企業の研究所に勤務。25歳の時に大学時代の友人と結婚し、南田さんは寿退社する。実家から車で20分くらいのところで暮らし始め、27歳で長女を、2歳違いで次女、三女を出産。両親や義両親とは、3人の娘の七五三や幼稚園・学校などの行事がある度に会っていた。

2004年、取締役まで務めた父親は、70歳で完全に定年退職を迎えると、趣味の鉄道模型作りに没頭。母親は時々それに付き合ったり、旅行へ行ったり、お茶や染め物、アートフラワーなどなど、お稽古ごとに勤しんでいた。

■母親の異変

ところが2015年頃のこと。40代になっていた南田さんは、78歳の母親が何度も同じ話を繰り返すようになってきたことに気づく。外で会う約束をしても待ち合わせの時間に遅れてきたり、歯医者を予約しても予約時間に間に合わなかったり。常にイライラし始めて、南田さんに逆ギレすることが増えていく。

「当時は認知症に怒りっぽくなるという症状があることを知らなかったので、気付くのが遅れました。でも後から知ったことですが、すでに母は1人で病院に行き、認知症の貼り薬をもらっていました。通院していることを知った時、どこの何という病院に行っているのか聞きましたが、教えてくれませんでした。もしかしたら忘れてしまって言えなかっただけかもしれませんが、しっかり者の母は、プライドもあったのかと思います」

そして2018年。おかしな言動がある度に夫や娘たちに相談し、全員が「おそらく認知症だろう」と見解が一致していたこともあり、「早めになんとかしなくては」と思っていた南田さんは近所の精神科を予約して、母親に「行ってみようよ」と声をかけた。

すると母親は、「何を言ってるの! 行かないわよ!」と激怒。

「この日私は、うまく母を誘い出せるか不安だったので、2番目の娘に同行を頼みました。娘は隣にいてくれていただけなのですが、私に勇気を与えてくれました。でも母がいきなり怒鳴った後、口もきかなくなり、その豹変ぶりを目の当たりにさせてしまったことを後悔しました。娘にとってはいつまでも優しい祖母であってほしかったからです。だけど、突然激昂するのが認知症なのでしかたないですよね……」

同じ頃、南田さん一家と両親と一番上の娘とで5日間の海外旅行へ行った。母親が持ってきたトランクは、「何日滞在するんだろう?」という大きさ。南田さんや一番目の娘たちは機内持ち込みできるくらいのサイズだ。おまけに母親は、約80cmもある巨大なウサギのぬいぐるみを抱いていた。父親は、口出しすると怒り出すだろうから好きなようにさせておいたようだ。

「1番目の孫ちゃんがウサギ好きだから喜ぶと思って」

旅先の宿に着くと、母親はトランクを開けた。すると中にもウサギのぬいぐるみがいくつか入っていた。これら全てを孫にあげると言う。

「旅行に同行したとき、1番目の娘はまもなく30歳。ウサギのぬいぐるみで喜ぶ歳はとっくに過ぎていましたし、旅行先で渡されても困ります。とはいえ本人は孫を喜ばせたくてした行動。ちゃんと理由はあるのですが異常です。この頃から出かけるときの支度をするときは、私がするようになりました」

現在、母親は80代となったが、後述するように、そこにいたるまでの「暴君化」はまさに目も当てられないものだった。

■義父の死

一方、義両親の健康状態も、以前から思わしくなかった。

2010年3月。76歳の義父に膵臓がんが判明した。膵臓癌は自覚症状が出にくく、気づいた時には末期であることが少なくないというが、たまたま受けた血液検査で見つかったのはラッキーだったかもしれない。義父は約45日後に病巣とリンパ節を10kgほど摘出する手術を受けた。

人間の膵臓の位置を示したイメージ画像
写真=iStock.com/nopparit
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nopparit

年齢の割に体力のある義父は、手術翌日には院内を歩き回り、1週間ほどで退院。手術から3カ月後には南田さん一家で北京旅行に行ったが、現地の食事も問題なく、万里の長城では一般の人が行ける終点まで登った。

ところがその1年半後、再発がわかると、通院で抗がん剤治療を開始。するとこの頃から義父の体調に陰りが見え始めた。

78歳の頃、主治医に「入院してください」と言われたため、南田さんが義母と一緒に義父を病院に送り届けた。この時、義父は車から降りると、自分の足で歩いて病院まで移動できていた。

翌日、南田さんの1番上の娘がお見舞いに病院を訪れ、その次の日は、南田さんの両親がお見舞いにきた。その翌日、突然容態が急変し、義父は亡くなった。

あまりに急なことで、義弟(南田さんの夫の弟)はお見舞いにくることができていなかったが、臨終には立ち会えた。

「義父は演劇や音楽、旅行が大好きで、義父の死後、これから開催予定のミュージカルとコンサートのチケットが2枚ずつ出てきました。義母と行くつもりだったのだと思います。2人はとても仲良しで、目の悪い義母を義父はよく助けていました」

50代後半頃から「加齢黄斑色素変性症」を患い、障碍者手帳を持っていた義母だが、義父の死後、一人暮らしになってしまった。この目の病気は、狭視野で正面にあるものしか見えず、見えるものはかすんで見え、色の区別がしにくくなる。

「人に助けを求めたがらない義母でしたが、さすがに視力が失われていく病の人を放ってはおけません。高速を使って車で1時間ちょっとの距離でしたが、月に1〜2回は様子を見に行き、義母の書類や郵便物を確認する手伝いをし始めました」

義父が亡くなった3年後、義弟は10年以上別居状態だった妻と離婚し、再婚。義弟は義母の家の近くに住んでいたため、義弟と再婚した義妹が時々様子を見に行くようになった。

南田さんと夫は、「早くどこか安心できる施設に入れてあげたい」と思い、探し始めた。すぐに視覚障害者向けの施設が見つかったが、南田さんや義弟の家から遠いため、二の足を踏んでいた。

■一人暮らしの限界

義母は、70歳ごろから「線維筋痛症」も患っていた。全身のいろいろな場所に激しい痛みが続くため、痛みで眠れず、睡眠導入剤を常用していた。

「義母は昔からよく歩く人でした。目が不自由になっても、眼科はもちろん、心療内科にも、睡眠導入剤をもらうために片道1時間かけて通っていました。過去にわざわざ講演会を聞きに行って感銘を受けた医師だったので、『通院が大変だろうから、近くの医師を紹介するよ』と言われても、頑なに受け入れようとはしませんでした」

他人から目が悪いことを指摘されるのを嫌う義母は、白杖を持つことを拒否した。

「目が悪いことを理由に、人並みに物事ができないと思われるのは、プライドが許さなかったようです。だから何でもとにかく頑張るのですが、そのせいで社会に迷惑をかけることになり、おかげで家族が『何とかしてください』と叱られてしまうことが多くありました」

しばらくすると、義母は便秘と下痢を繰り返し、週に2度も内科に通うようになっていた。

疑問に思っていた南田さんは、後にその理由に気づく。義母宅の冷蔵庫には、傷んだ食べ物ばかり入っていたのだ。

汚れた冷蔵庫
写真=iStock.com/Photosampler
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Photosampler

「賞味期限には昔からうるさく、目が悪くなってきてからは、買ってきたらすぐにマジックで大きく期限の日付を書いていた義母ですが、かろうじて明暗はわかるというレベルにまで視力が落ちてしまい、賞味期限が切れているのがわからないまま食べていたのでしょう……」

そこまで大変な目に遭っても、誰にも頼ろうとしないことに、尋常ではないものを感じる。

そのうちに義母は、南田さんの実母同様、同じ話を何度もするようになっていった。南田さんが訪問する数時間の間に、5回も6回も同じ話を繰り返す。

意を決して夫に話すと、「俺もそう感じていた」と言う。義弟に連絡すると、義弟も「認知症かもしれないと思っていた」と言った。

そんな時、義母の住み慣れた街に新しく老人ホームができた。視覚障害者の義母でも受け入れてくれるというので見学に連れて行くと、気に入った様子。入所前日は、同じマンションの親しい人たちに自ら「明日から施設に入ることにしました。ありがとうございました」と挨拶して回っていた。

■義母の狂人化

ところが入所当日。義弟の付き添いで施設に向かい、契約や利用についての説明を聞いていると、突然義母が手に負えないほどの剣幕で怒り出した。万が一、入居者が何かを壊した場合の、損害賠償の話をしている最中だった。

「私が何をするというんですか! 私がモノを壊すと決めつけてる!」

挙げ句の果てには、「家の片付けがまだ終わっていないから帰る!」と言い出す始末。義弟は何とかなだめすかし、施設に押し込めるような形で入所を終えたという。それから義母は、毎日義弟に「帰りたい」と電話するようになっていた。1週間後には、義弟から南田さんにヘルプの連絡が来る。

「お母さんの電話攻撃でおかしくなりそう! 施設にもかなり迷惑をかけている。お義姉さん、どうしよう?」

この頃、南田さんの夫は、仕事の関係で海外に住んでいた。

義母は施設の構造を一生懸命覚えようとしている様子も見られたが、一方で、自宅に帰るために、自分の服や部屋にある椅子やテレビなどを玄関まで持って行くなどし、職員たちに迷惑をかけているらしい。

さらに、時々施設に見学に来る人たちに向かって、「ここは地獄です! 拘束ホームです!」と悪口を吹き込んでいるという。

やがて義母からの電話は、義弟だけでなく南田さんにもかかってくるようになっていった。

義弟には、朝6時半から始まり、多い日は一日100回以上かかってきた。義弟が出ないと、義妹にもかかってくるようになった。

携帯電話で話す高齢の女性
写真=iStock.com/Hanafujikan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hanafujikan

すっかり義母の電話恐怖症になった義弟は、南田さんと義妹とで仕事の後に開く「作戦会議」が心の拠り所となっていた。

「義母はすっかり別人になってしまいました。認知症だから仕方がないとはいえ、息子に殺されるだの、捨てられただの言って泣きわめくのですが、夫も義弟もとても義母を気遣っていて、親孝行な息子だと思います。あまりに失礼だと思い、義母に怒りを覚えました」

義母は毎日のように荷物を玄関まで運び出し、玄関先で施設の悪口を叫び、白杖を振り回すため、施設もお手上げ状態だった。

入所から2週間ほど経った頃、精神科医との面談があったが、義母の興奮がおさまらず、精神科医でさえ「診察不可能」と言った。だが、この面談で初めて「認知症」の診断が下り、これまで出されていた抗うつ薬を減らし、統合失調症の薬を追加して落ち着かせる方針に決まる。

ところがその4日後。施設からの連絡に南田さんは声を上げる。

「投薬だけでは限界なので、精神病院に入院してください」

しかし義弟は首を縦に振らない。義母の電話のせいで精神的に疲れてしまい、仕事に行けなくなっているにもかかわらず、義弟は「家に戻してあげるべきか」と葛藤し続けていた。義弟が電話に出られないと義母は義妹に電話をし、「あなたのせいで息子が電話に出ない! あなたは鬼だ!」と責めたてる。

義母は用もないのにタクシーを呼んだり、警察に電話したりと次々に事件を起こす。

入所から1カ月後、義弟は家に戻すことを決断。義母は家に戻った。

ところがその翌日、自ら救急車を呼び、駆けつけた救急隊員に対して「何しに来た? 出て行け!」と叫んで足で蹴り出した。

この頃の義妹は限界に達していた。義妹は、南田さんや施設の職員、医師・看護師が言うように、精神科に入院させるべきだと考える。しかし義弟は精神科に入院させたくない。

そんな意見の食い違いから、離婚の話にまで発展したが、何とか義妹は踏みとどまった。

義母が自宅に戻ってから5日後。スーパーで買い物ができず、床に転がって子どものように暴れているという連絡が、スーパーから義弟に入った。なんと3時間もスーパーで暴れていたという。

これが決定打となり、ようやく義弟は精神科への入院を決断した。

■兄がコロナに

病魔は南田さんの身内にも容赦なく襲いかかった。

2021年1月初旬。南田さん(当時55歳)の兄がコロナになり入院。60歳の兄は1歳下の妻と25歳の一人娘と暮らしていた。

「病院は、コロナ患者を扱うエリアとそうでないエリアに分かれていました。たぶん病院関係者でも、エリアが違うと入れなかったのではないでしょうか。もちろん患者の家族は院内に入ることすらできませんでした。兄は妻とLINEしていましたが、当時はまだタブレット面会もありませんでした」

1月下旬、兄は死亡した。

「入院前、コロナの診断を診療所で受けた時、すでに肺は真っ白、ひどい肺炎になっていました。この頃のコロナは肺の奥まで入り込むため、致死率が高かったのです」

母親(85歳)は、この時から昔のアルバムを見て過ごすように。料理ができなくなり、掃除も洗濯もできなくなり、家事は全て父親(86歳)がやるようになった。

2022年は兄の件以外にもいろいろあり、あわただしい年になった。

2月。義母(84歳)の精神状態が安定したため、精神病院を退院し、元いた施設に戻った。

5月。海外出張から夫が帰国した。

9月。母親は、若い頃から慕っていた脳神経外科医の病院に通い始めた。

10月には介護認定を受け、要介護1。デイサービスに通い始める。

2022年に入る頃には、ガスコンロの火のつけっ放しや水の出しっ放しがあり、コンロはIHに替え、水道には人感センサーをつけた。

「2022年の1年間が、最も母の破壊行為や暴力行為が激しかった頃だと思います」

日に日に母親は暴君化していった。(以下、後編に続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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