自分の腹から内臓を引き出し、罵りながら投げつけた…武士が「なかなか死ねない切腹」を選んだ深い事情
プレジデントオンライン / 2024年9月8日 10時15分
※本稿は、河合敦『逆転した日本史〜聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える〜』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
■「ハラキリ」は武士の自殺手段として一般化
「何かあれば、そのときは俺が腹を切る」というセリフは、映画やドラマでよく耳にする。責任を取ってやめるという意味だが、昔は本当に腹を切った。とくに江戸時代の武士は、自分に落ち度があった場合、割腹して己の命であがなうケースが少なくなかった。
そんなことから、切腹は日本人特有のものだと考えられ、外国人にも「ハラキリ」という語が知れ渡っている。
記録に残る最初の切腹は、988年のことといわれている。盗賊の藤原保輔が捕まるさい、刀で腹を割いて腸を引きずり出して自殺をはかった。保輔は翌日、その傷がもとで死んでいる。
やがて武士が登場すると、合戦に敗れたさいの自殺手段として一般化する。
不運にも戦いに敗れ、窮地に追い込まれたとき、敵に殺されるのを待つのではなく、みずから切腹して死を選ぶようになった。
■己の勇敢さを見せつける一世一代の大舞台
ただ、刀で腹を割いても、死ぬまで相当な時間がかかる。腹部を切開しても太い血管が通っていないため、切腹だけではすぐに失血死はしないのだ。死ぬだけなら首を吊ったほうがすぐに逝けるし、刃物を用いる場合、喉や心臓を刺したり、首の動脈を切れば短時間で死が訪れる。
にもかかわらず、切腹を選ぶのにはわけがある。
切腹は、腹を大きく一文字か十文字に切るのが一般的だった。己の意志で刃を左脇腹に深々と突き立て、それを確実に横に引いていったあと、十文字切りの場合は、さらに刃をいったん引き抜いてから、みぞおちに突き刺し、それを上から押し下げていく。
当然、激しい痛みが襲うとともに、切腹をやり遂げるにはすさまじい意志の力が必要だ。気の弱い人間ならショックで失神する。つまり切腹は、やむなく合戦で敗れたものの、その最後の場面において、どれだけ己が勇敢であるかを敵に見せつける一世一代の大舞台だったのである。
だから、腹を切ったあと、相手をさんざんののしり、己の腸を腹部から引き出し、内臓を相手に投げつけるという行為が中世の武士にはよく見られた。
■切腹後に城を放火し、自らとどめを刺した勇将
たとえば、1332年に護良親王(後醍醐天皇の皇子)の身代わりとなった村上義光は、矢倉(櫓(やぐら))の上で腹を切って腹部から腸をつかみ出し、矢倉の板に投げつけ、口に太刀をくわえて飛び降りて死んでいる。
赤松満祐は室町幕府の六代将軍足利義教を殺害したため、1441年に幕府の征討軍に攻め滅ぼされた。そのさい、赤松方の勇将である中村弾正も、やはり矢倉にのぼって「これから腹を切る。心ある侍は、のちの手本とせよ」といい、十文字に腹部を掻き切り、はらわたを手でつかみ出し、矢倉の下に投げ落とした。
さらに驚くべきは、そのまま城へと戻って主君満祐の御座所に火をかけ、その後、自らにとどめを刺して焼死したと伝えられる。
だが、戦国時代になると、晴れ舞台であった切腹は、武士の刑罰となっていく。
権力者や勝者が罰として切腹を申し渡すようになるのだ。切腹という行為はあくまで自殺だが、その行為を強要されるわけで、その本質は他殺といってよいだろう。
■謀反した秀吉の甥は4人を介錯して果てた
天下人の豊臣秀吉も、幾人もの敵や部下に切腹を申し渡している。
その代表が、一度は自分の後継者に選び、関白にまで昇進させた甥の豊臣秀次だ。
1595年、秀次は秀吉から伏見城まで来るように言われ、出向いたところ、城ではなく木下吉隆の屋敷に案内され、そこで「高野山へ登れ」と命じられた。理由は謀反の罪であった。弁解は一切許されなかった。その日のうちに秀次は伏見を出て7月10日に高野山の青巌寺に入った。そしてまもなく秀吉から死を賜り、7月15日、秀次は切腹して果てた。
自害する前、秀次は小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作に、貴重な脇差を手渡した。彼らはいずれも10代で、美少年だったと伝えられる。3人は主君に先んじて次々と腹を切っていった。4番目には、秀次に目をかけられていた東福寺の隆西堂(虎岩玄隆)が、秀次があの世で迷わぬよう腹を切った。
驚くべきは、その4人すべての首を、見事に秀次自身が切り落としていったことである。これを介錯(かいしゃく)というが、すぐに死ねない切腹の苦痛を和らげるのがその目的だった。
■作法が確立し、流れ作業のように切腹した
かつては、腹を割いて臓物をばらまいたあと、みずから刀を口にくわえて命を絶ったり、首を切るなどして死んだが、刑罰としての切腹は介錯がつくのが通例となった。
また、腸を引き出す行為はむしろ敬遠されるようになった。いずれにせよ、5番目に秀次は見事に腹を切り、介錯を受けて果てている。
江戸時代になると、切腹の作法がしっかりと確立してくる。切腹前の潔斎(けっさい)。公儀への届け出。当日の準備や服装。切腹に用いる短刀の寸法。具体的な切腹の所作。介錯の作法。検死の方法。こうした細かい取り決めごとに則り、淡々と流れ作業のように切腹が進んでいくのは、おそらく世界的にも異例だと思われる。
また、腹に刃を突き立てる前に介錯を受けることも珍しくなくなる。元禄時代に吉良上野介を討った赤穂浪士たちも、この方法で亡くなったようだ。ただ、間(はざま)新六郎だけは本当に腹を割いたので、介錯人があわてて首を落とした。
けれども、必ずしも腹を割く前に介錯するのが主流となったわけではない。実際に割腹の例は記録に多く残る。
■「殉死すべき」という寵臣への圧力
いっぽうで、扇子腹も見られるようにもなる。短刀の代わりに扇子を三方に載せ、その扇子に手を伸ばした瞬間、介錯人が首を落とすという切腹方法だ。切腹者が子どもや病人、あるいは臆病だったり、刃物を持たせると危険な場合に行われた。
戦の敗北による自殺、罰としての自殺の強要を紹介したが、切腹する動機はじつにさまざまである。江戸初期までは、主君が死んだとき、それに殉じるために切腹することも少なくなかった。とくに寵臣には「殉死すべき」という強い圧力がかかったようだ。
主君を諫めるため、あらかじめ腹を切ってサラシをきつく巻いて主君の前に出て、諫言を行ってそのまま果てる、これを蔭腹(かげばら)と呼んだ。
ただ、江戸時代にはやはり、失敗や不手際の責任をとるために行われる切腹が極めて多かった。
■「命じられる切腹」から「自ら選ぶ切腹」へ
その理由については「徳川家の情容赦のない武断政治――威厳維持の政策にあったとしか思われない。理由のいかんを問わず、たとえどんな些細なことであろうと違反を犯した場合は、その責任を追及するという幕府の鉄の掟が、各藩にも浸透していたのである。それは公的な意味だけでなく、私的な意味にも拡大解釈され、個人的な約束違反をするとかまたは他人に迷惑をかけたとき、信義にもとるとして切腹の行われる場合があった」(中井勲著『切腹』ノーベル書房 1970年)とされる。
つまり、江戸幕府の厳しい処断姿勢が「罪に問われる前に責任をとって自死を選ぶ」という風潮をつくり上げたというのだ。罪としての切腹と自責の念からの切腹が密接に連動しているという考え方はなかなか面白い。
ただ、藩のトップである大名自らが、失政の責任を感じて腹を切る例は絶無だった。たいていは、その家老や側近が詰め腹を切らされて決着する。
戊辰戦争に敗れた東北諸藩に対し、新政府は藩主が自裁する代わりに家老の切腹を求めた。ゆえに誰一人、敗北した大名は死んでいないのだ。
■会津藩主の代わりに家老3人が責任を取った
たとえば戊辰戦争で朝敵とされた会津藩は、鶴ヶ城に籠もって新政府軍に徹底抗戦したが、城下は灰燼(かいじん)に帰し、城内の矢玉も尽き、1カ月後に降伏している。藩主の松平容保は粗末な籠(かご)に乗せられて江戸へ護送されたが、死一等を減じられ、処刑は免れることになった。だが、新政府はその代わりに、敵対した責任として家老3名の首を要求した。
このうち田中土佐、神保内蔵助はすでに死んでいたが、あと1人、犠牲にならねばならない。その役を買って出たのが萱野権兵衛だった。これを知った容保は、萱野に書簡を送っている。
「私の不行き届きよりこのようなことになり、まことに痛哭(つうこく)にたえない。一藩に代わって命を捨てること、不憫である。もし面会できるならお前に会いたい。が、それはかなわぬこと。お前の忠義は、深く心得ている。このうえは、潔く最期を遂げてくれるようお頼み申す」
この書簡を目にした萱野は涙を流し、粛々と死についたといわれる。
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歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)
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