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風紀委員長になったら「ますます嫌われた」…永遠の総裁候補・石破茂が明かす"生徒会選挙"で落ちた苦い記憶

プレジデントオンライン / 2024年9月9日 10時15分

石破茂衆院議員 - 撮影=野口博

自民党の石破茂衆院議員は、「次の首相にふさわしい人」としてたびたび注目されてきた。しかし、総裁選では国会議員の支持が伸び悩み4戦全敗。石破氏はなぜ自民党内で支持を得られないのか。石破氏の著書『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)から、地元・鳥取で過ごした少年時代のエピソードを紹介する――。

■吉田茂から「茂」をもらう

私は、1957年(昭和32年)2月4日、東京都千代田区で、父・二朗、母・和子の長男として生まれました。上に姉が2人います。私が生まれた時、父は建設事務次官で48歳、母は39歳でした。父の秘書を務めていた高岩迪資氏によれば、自分が高齢だということで父はあまり病院へ行きたがらず、高岩氏が代理で病院へ出かけていたことが多かったので、病院の人々から高岩氏が私の父親と間違えられることがあったそうです(『回想録石破二朗 追想篇』から)。

両親の結婚は父が30歳、母が20歳ですから、当時でも遅かったわけではありません。上の姉が1940年、下の姉が41年生まれですから、私と下の姉でも16歳の差がありました。姉2人はいずれも母の意向で、中学から私立の女子学院に進学し、東京女子大を出て上の姉は国語、下の姉は英語の教師になりました。母も国語の教師だったので、教師一家ともいえます。父が亡くなった時に母に聞いたら、当時の役人は給料が低くて、娘二人を私立に行かせると、なかなか3人目を作る余裕がなかった、と言っていました。

■「石破金太郎」「石破栄作」になっていたかも

なぜ「茂」と名付けたかについては、母から聞いたことがあります。父は男の子ができたのが嬉しくて、名前は相当前から決めていたのですが、それがなんと「金太郎」だったのだそうです。あの鉞(まさかり)担いだ金太郎さんです。

それを聞いた母が「子どもが幼稚園や小学校に行って『ヤーイ、金太郎』なんていじめられたらどうするんですか」と血相を変えていさめたら、父はがっかりして、もうどうでもいいやと、吉田茂の茂をもらってきたんだそうです。父は政治家としては、吉田茂、佐藤栄作系ですから、不思議はありません。私も「石破栄作」よりは良かったような気もします。

■小さいころから「変わった子」だった

私が東京にいたのは1歳までで、記憶はありません。父が翌1958年に鳥取県知事に就任したので、鳥取県へ転居しました。

中学校卒業までは、鳥取県八頭郡八頭町で育ちました。八頭と書いて「やず」と読みます。鳥取県の東南部に位置し、扇ノ山や広留野高原などの自然が魅力的な、柿や梨の産地です。

小さいころは、一言で言うと、変わった子だったらしいです。政治家の家に育ち、父母ともにほとんど家にいなかったので、物心ついた頃は自分の親が何をやっている人なのかよくわかりませんでした。「父の日」なんかに「僕のお父さん」というタイトルの作文を書かされましたが、凄く困ったのを覚えています。政治家という仕事は、小学校低学年にはよく理解できないんです。会社員でもお百姓さんでもない。皆が頭を下げているけれど、なんだかよくわからない不思議な存在だなと思っていました。

■学校から帰ると「国会中継」

今から考えると、父と子とか、母と子とか、そういう関係をなんとなく客観視していたようなところがあったように思います。この人は鳥取県知事という人なんだ、この人は鳥取県知事令夫人というものなんだ、みたいな感覚です。もちろん、父母ともに愛情をもって育ててくれた感覚もあるのですが、物理的に接触の機会が乏しかったということかもしれません。

学校から帰ってきて、国会中継なんか見ていた覚えもあります。テレビはNHKと日テレ系列しか映りませんでした。日本海テレビが日テレの系列で、TBSもフジもテレ朝もなかった。そういえば、子ども心に、予算委員会はなぜ予算の審議を全くしないのか不思議に思っていたことを思い出しました。なかなか鋭かったのでしょうか。

■「モルモット」のように育てられた

鳥取大学附属小学校、中学校に通って、とてもユニークな教育を受けました。特に小学校5、6年生の頃の担任の先生が強烈でした。1日の授業が終わると、黒板に「鶴亀算」とか「流水算」とか「通過算」とか「和差算」とか、四則応用問題がいくつか書き出されて、それを一日2題、解けた者から帰っていい、というのがあって、できないと何時間でも残されるんですね。ある時、「鶴亀算」は連立方程式を使えばすぐ解けると気付いたのですが、それは使ってはだめですと言われて、がっかりしたこともありました。

この担任の先生は、当時こういう言い方をしていました。「ここは鳥取大学教育学部の附属だから、こんな教育をしたらどういう子どもが育つのか実験しているんだ。そういう意味では君らはモルモットだ。それが嫌ならやめろ」。

研究者の手の上のモルモット
写真=iStock.com/jxfzsy
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/jxfzsy

今聞くとなんだかずいぶんひどいことを言っているようですが、鳥取県唯一の国立の小学校だったので、できる子が集まっていましたから、慢心を戒める意味合いも相当にあったのだと思います。毎月1回試験があり、その成績を1番から38番までクラスで張り出していましたし、必ず一日に1回日記を書けという課題もあった。それも先生が全部読んでチェックしていたのですから、先生の負担はかなりのものだったでしょう。

他にも個性的な先生がおられました。国語の先生ですが、アコーディオンが上手で、「元寇」という歌(1892年に発表された軍歌。作詞・作曲は陸軍軍楽隊士官)とか、「桜井の訣別」(楠木正成とその息子楠木正行の別れを歌ったもの。「大楠公の歌」ともいう)とか、戦前の唱歌を見事に歌ってくれた。あまりに繰り返すものですから、生徒も皆歌えるようになりました。私は今でも2曲とも歌えます。

■「のんびり屋」には最適な学校だった

梅雨が明けると臨海学校でした。プールで100メートル泳げる子たちは、海で1.5キロの遠泳をさせられる。中には途中で泳げなくなる子がいて、先生が後ろからボートでついて来るのですが、助けるのかと思いきや、オールでバシャバシャとやられる。たまらないから皆一生懸命泳ぐ。もちろん人命にかかわる無茶なしごきではありませんが、子どもの力を最大化しようという、そんな学校でした。

私のようなのんびり屋には、あのような環境で、無理やりにでも勉強させられたのはありがたいことでした。

中学2年か3年の時、それこそ二次関数がわからなくなりました。そうしたら、担任の先生が、「今晩俺は宿直で一晩学校にいるから、わからないことがあれば聞きに来い」と言ってくれたので、私はそれを真に受けて、夕方遅い時間に聞きに行きました。そこで先生が時間をかけて丁寧に教えてくれたおかげで、突然二次関数がわかるようになったんですよ。あの時の感激は今も忘れません。ありがたい先生がおられたんですよ。

■人のいない鳥取砂丘が好きだった

子どもの頃の心象風景はどういうものですか、とよく聞かれます。やはり、景色としては鳥取砂丘ですね。中学の頃は、学校から帰ると自転車をこいで毎日のように砂丘まで行っていました。自転車で30分くらいですからそんなに近かったわけではありませんが、なにか強い思い入れがありました。郷土の誇りみたいなものもあった。

人がわらわらいるゴールデンウイークとか夏休みとか、観光シーズンの砂丘は好きではなくて、夏の終わりから秋のはじめ、人がいない時の砂丘が好きでした。何とも言えない寂寞感があって、見ていると、自分とは何か、生きるとは何か、人間とは何だろう、とつい哲学的な境地になってしまう、そんな記憶があります。

鳥取砂丘
写真=iStock.com/KOICHIRO SAKURAGI
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/KOICHIRO SAKURAGI

■生徒会規則を振りかざして「ますます嫌われた」

政治への関心は、いつ頃芽生えたんでしょうね。おそらく、かなり早い時期から社会の出来事には関心を持っていたような気がします。それなりに勉強はできたし、知事の子どもだということを皆知っているし、学級委員長とか児童会長とかもやっていました。

ただ、中学2年の時に生徒会の副会長(会長は3年生)に立候補した時は、落選しました。当時は70年安保闘争、まだ学生運動が盛んな時代で、反権力的であることが格好いいという風潮がありました。知事という権力者の倅(せがれ)ということで疎まれたということもあったのかもしれません。

そこで別に居直ったわけではないのですが、風紀委員長というものになりました。これは志願した記憶はないので、割り当てだったんでしょうね。遅刻してはいけませんとか、下校時刻は守りましょうとか、ビシバシ取り締まる。それで横暴だとか言われると、クラスに乗り込んで行って、生徒会規則の条項を挙げて、こういう規則に違反するんだと滔々と述べる。ますます嫌われましたね。

子どもの頃から本を読むのは好きでした。家にあったせいでしょう。中学生の頃から『文藝春秋』や『諸君!』を読み始め、高校になっても読み続けました。

■15歳で単身東京へ

1972年、私は慶應義塾高校に進学します。

実は、父としては、自分が卒業した鳥取一中(今の鳥取西高)に進ませ、東大に入れて役人にしたかったらしいです。ただ、母親はそれに賛成ではなかった。そうでなくても秀才とは言えない息子は、鳥取西高はなんとか受かるかもしれないが、東大に行けと無理やり勉強させるのがいいのかどうか、と思ったようです。

政治家の子どもというのは、言うことを聞くいい子になるか、ぐれるかどっちかだというのが相場のようですが、この子はあまり強制するとぐれるかもしれないと。もう一つ、知事の息子が県立高に行くのはあまりよくない、という思いが母にはあったらしい。彼女自身が知事の娘として県立高に行き、教師からも友人からも特別視され、嫌な思いをしたんだそうです。だから、自分の子には同じ目には遭わせたくないと思ったのでしょう。

私も当時田舎の中学生ですから、灘だの麻布だのはよくわからない。過去問集を見ると難しそうだし、そういうところに行こうとは全く思わなかった。東京教育大(現・筑波大)附属駒場高校とか学芸大附属みたいなところを受けようかなと思ったら、当時は親が首都圏にいないと受けさせてもらえなかった。それで結局消去法で慶應くらいしか残らなかったんです。父はすごくがっかりしたようですが、まあ母の意見が通って15歳で東京に一人で出てくることになりました。

そこから一応一人暮らしが始まるわけですが、上の姉が近くに住んでいたので、その近くにアパートを借りてね。食事その他は上の姉が面倒を見てくれました。

■夜行列車「出雲」の中で鳥取を感じた

東京に出てきてみて、カルチャーショックが凄かったですね。慶應をやめて鳥取西高校を受け直そうと何度思ったことか。いじめはなかったですが、みんなよく勉強ができるし、格好いいしね。

石破茂『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)
石破茂『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)

そうやって落ち込んだ時は、必ず帰りに東京駅に寄って、夜行列車が出るホームに行きました。東京駅から山陰方面に行く夜行特急「出雲」というのがあって、乗るのは東京の人が半分くらい、島根の人が4分の1くらい、そして鳥取の人が4分の1くらいいるんです。だからそこに行くと鳥取の人の訛や会話を聞くことができる。

まさに石川啄木の歌の通りでした。「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」ですね。このまま夜行列車に乗って帰ったらどんなにいいか、とも思いながら、何とか我慢して東京の家に帰りました。ただ、1年の夏休みの頃には東京生活にもすっかり慣れ、そんな気は全く薄れていました。やはりまだ15〜16歳ですから、同化するのも早かったんでしょうね。母親が東京の人だったんで、それほど違和感もなく溶け込んだ気がします。もちろん選挙区に帰れば、今でも鳥取の言葉をしゃべりますよ。ネイティブですからね。

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石破 茂(いしば・しげる)
衆議院議員
1957(昭和32)年生まれ、鳥取県出身。慶應義塾大学法学部卒。1986年衆議院議員に全国最年少で初当選。防衛大臣、農林水産大臣、地方創生・国家戦略特別区域担当大臣などを歴任。著書に『国防』『国難』『日本列島創生論』『政策至上主義』など。

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(衆議院議員 石破 茂)

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