1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 政治

なぜ田中角栄は「人の心をつかむ天才」になれたのか…石破茂の結婚披露宴で角栄が語った"スピーチの中身"

プレジデントオンライン / 2024年9月11日 10時15分

1989(平成元)年12月3日、田中角栄元首相が政界引退を表明した後、初めての里帰り。 - 写真=共同通信社

田中角栄首相は今も根強い人気がある。なぜ彼は人を惹きつけるのか。角栄を師と仰ぐ自民党元幹事長・石破茂氏の自著『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)より、2人のエピソードを紹介する――。

■ロッキード事件の最中、「丸紅」勤務の彼女と結婚

1983年はまた、私が結婚した年でもあります。ここで結婚にまつわる角栄先生とのエピソードもご紹介しておきましょう。

木曜クラブの事務所に入ってしばらく経ったころ、角栄先生に呼ばれて、こんなお話をいただきました。

「君には嫁がいないじゃないか。そしてそもそも君のうちには金がない。ついては、新潟の建設関係のお嬢さんで、いいのがいる」

これには慌てました。私には、どうしても結婚したいと思いながら付き合っている人がいたからです。ものすごくご機嫌を損ねるだろうと思いましたが、言わないわけにはいきません。

「も、申し訳ありません。じ、実は、大学の同級生で一緒になりたいと思っている人がおりまして」

角栄先生は、へー? という顔をして、詰めてきました。

「何だ、それは。どこに勤めているんだ」

ここで私は窮地に立ちました。彼女の勤め先は、あのロッキード事件の渦中にあった丸紅だったからです。「商社です」とごまかそうかと一瞬思いましたが、この先それで通しきれるはずもありません。仕方なく、さらに小さくなりながら、正対してきちんと(いえ、もしかしたら逃げ腰だったかもしれませんが)「ま、丸紅です」と答えました。

■「馬鹿者」から表情が一変

角栄先生は一言、「馬鹿者」と仰って、激高しそうな様子をみせたのですが、ふと、考え直すようなそぶりで、「待て、その子の親はどこの出身だ」と聞いてこられたのです。私は心中、快哉を叫びました。彼女のお父上の出身は新潟だったからです。

おそらくかなりの得意顔で私が「ご出身は新潟です」と答えると、先生は急に柔和な感じに戻られ、「そうか、それならいい」と言ってくださいました。

その後、私は無事にその彼女と結婚できることになり、結婚式は83年9月22日、ホテルニューオータニで挙げることになりました。

■披露宴会場を沸かせた田中角栄の「伝説のスピーチ」

20日後にはロッキード事件1審判決があるという日程でしたが、角栄先生は私の親代わりということで、ずっと母の横に立って来客に立礼をしてくださいました。

実は私たちは、角栄先生に仲人をお願いしました。すると角栄先生は「何を言っているんだ。お前にはもう、親父がいないじゃないか。俺は、お前の親父さんの代わりにお前のお袋さんの横に立ってやりたいんだ」と言われました。私も父と角栄先生の深い絆を見てきて、そうしていただくことが、天上の父にとっては何よりも有り難いことだろう、と思い、改めて親代わりをお願いしたのでした。

今振り返っても分不相応な、盛大な披露宴でした。角栄先生が親代わりで、主賓が当時蔵相を務めておられた竹下登先生でした。

妻の職場は丸紅でしたから、角栄先生が出席される結婚式に一体誰を招待したらいいか、相当議論があったようです。来てくださった丸紅関係者の皆さんは、角栄先生がスピーチで一体何を話されるのか、戦々恐々としていました。角栄先生は、先ほどの私とのエピソードをスピーチに織り交ぜてお話しになりました。

「石破君にはもう決まった女性がいるという。誰だと聞いたら『丸紅の女性』だと。何っ? 丸紅? しかし、丸紅はいい会社だ。うん、私のことがなければもっといい会社だ」

これは会場を大いに沸かせ、丸紅の皆さんからも笑顔が見えました。角栄先生のすごさが垣間見えるスピーチでした。

■世代交代の暗闘

いずれ政治家になることを決意したわけですから、東京だけでなく、地元の鳥取でも披露宴をすることになりました。

その時に、微妙な政局の襞(ひだ)を感じる出来事もありました。もうお二人とも亡くなっていらっしゃるのでお話ししてもいいでしょう。

東京の披露宴で主賓になっていただいた竹下先生が、「何だったら、お前の地元の鳥取も主賓で行ってやろうか」と言ってくださいました。竹下先生はポスト中曽根の筆頭候補のニューリーダーであり、かつ現職の大蔵相です。大変ありがたい、と、勇んで目白に報告に行ったところ、角栄先生はそれについてウンと言わなかったんです。

「竹下では俺の代わりにはならない。俺の代わりは山下元利しかいない」と仰いました。

竹下先生が田中派内で派中派といわれた勉強会「創政会」を作ったのが85年2月7日、それに怒った角栄先生が脳梗塞で倒れられたのが2月27日ですから、表立って動きが出る1年余も前の話です。両雄並び立たず。その頃から角栄先生は竹下先生などの世代交代を求める動きに警戒心を持っていたのかもしれません。

こんな一幕のあと、地元・鳥取での披露宴には、角栄先生の采配通り、山下元利先生に来ていただき、角栄先生の代行として主賓を務めていただきました。

■権力闘争という政治の世界の厳しさ

角栄先生と竹下先生の間に微妙な距離を感じることは、他にもありました。

竹下先生のご尊父、島根県議をされていた勇造先生が84年3月に亡くなり、その葬儀が島根県掛合町で執り行われました。その時はたしか東亜国内航空が臨時便を飛ばし、角栄先生以下、田中軍団のほとんどがそれに乗って島根入りし、葬儀に参列しました。私は事務局員としてチケットを渡したり、席の手配をしたりしていました。

葬儀はものすごく短いものでした。長々と弔辞を読むということもなく、住職の読経の後、竹下先生のお礼の挨拶で終わりました。その後、近くの大きな蕎麦屋でお斎(とき)があり、皆でお昼を食べたのですが、角栄先生が妙に上機嫌だったのを覚えています。

「竹下はえらい奴だ。長々とした葬儀をせずにすぐに終わった」と、2回繰り返されました。その誉め言葉を真に受けていいのかどうか。当時の私には及びもつきませんでしたが、すでに水面下では、田中派から竹下派への世代交代の暗闘が行われていたのかもしれない、と思うと、権力闘争という政治の世界の厳しさを思い知らされる感がしました。

竹下登 内閣総理大臣(第74代)
竹下登 内閣総理大臣(第74代)(写真=内閣官房内閣広報室/CC BY 4.0/Wikimedia Commons)

■「田中もいつまでも力があるわけではない」

こうして無事に結婚した後も、木曜クラブ事務局での仕事が続きました。衆院の鳥取全県区はまだ私が出られる状況ではなかったのですが、84年春になって状況が一変します。

前年のロッキード選挙において、鳥取全県区で当選を果たした島田安夫さんが、4月11日に死去されました。鳥取県議4期、県会議長まで務められ国政に転向、1回当選してその後3回落選して、奇跡のカムバックをロッキード選挙で果たしたのですが、一回も登院することなく亡くなられました。肺がんでした。所属は中曽根派でしたが、この方もまた隠れ田中派と言われていました。

それで角栄先生から目白に呼び出しがかかりました。

「お前な、島田が死んだな」と言われて、

「はあ」と返すと、

「石破な、お前の選挙区にはすでに田中派(平林鴻三氏)がいるから、そこからは出られない。お前がどうしても俺と一緒にやりたいって言うんだったら、今回は見送れ。だがな、国会議員になれるチャンスってのは、10年に1回あるかないかだ。その機を失うと、一生国会議員になれないかもしれんぞ。島田は中曽根派だが渡辺(美智雄)系だ。お前がもし渡辺のところに行っていい、ということなら俺が渡辺に話をしてやる」

その時、角栄先生がこう付け加えられました。

「田中もいつまでも力があるわけではない。派閥も永遠ではない」

■「石破をちょっと見てやってくれないか」

角栄先生が倒れられる1年ほど前のことでした。自派の中に何らかの変調を感じておられたのでしょうか。どんな強固な派閥でも、権力を前にすると、新しいリーダーと古いリーダーとの間で諍(いさか)いが起き、場合によっては分裂する。佐藤(栄作元首相)派から田中派を起ち上げた角栄先生ご本人がそのことを一番よく知っていたはずです。

角栄先生は、その場から渡辺美智雄先生に電話を入れてくださいました。

「俺のところに石破というのがいる。鈴木善幸内閣であなた(蔵相)と一緒に閣僚をやった石破二朗自治相の倅(せがれ)だが、俺のところで預かっているんだ。君のところの鳥取の島田君な。気の毒なことになったが、その後に石破でどうかと思うのでちょっと見てやってくれないか」

これに対して渡辺先生は、

「角さんのところから預かるのは不良品が多いからな」とまぜっかえした上で、「まあ、来てもらわなきゃわからないから」と言ってくださったので、そのままパレ・ロワイヤル永田町の渡辺事務所に行きました。

私は渡辺先生とはそれまで面識が全くありませんでしたが、やはり、会ってみると角栄先生とは違う種類の存在感がありました。「あっけらかんのかー」とか、「毛鉤」発言とか、失言の多い人と言われていましたが、一対一だとものすごく真面目な人でした。

税理士だけあって理詰めでもありました。いろいろ聞かれましたが、最後は「よしわかった」の一言で、角栄先生から私を預かることを了解してくださいました。

こんな経緯を経て、私は次の総選挙で、渡辺派から出ることになりました。もちろん、これはあくまでもまだ中央の話であって、地元ではそうすんなりとはいきませんでした。私は参院議員(石破二朗)の倅だし、地盤も違う、ということで、島田安夫後援会では甲論乙駁、侃々諤々の大議論があり、島田先生のご長男が跡継ぎは自分だと主張される局面もありました。

ようやっと島田先生のあとを私に、と決めていただいたのは1984年8月ごろでした。

■「お前が選挙に出れるのは1億8000万円安上がりだからだ」

84年9月、私は鳥取に帰って、父親の命日である16日に鳥取県庁で記者会見を開き、衆院への出馬を正式に表明しました。この直前、角栄先生に今までのお礼とお暇乞いに目白に伺った時、先生がこう言われました。

「お前みたいな、ただの政治好きのあんちゃんが、なんで自民党から立候補できると思う。それはな、お前が出たほうが、まったくの新人が出るより、選挙費用が1億8000万円安くあがるからだ」

■「握った手の数、訪ねた家の数しか票は出ない」

私がその意を問うと、「地元の有権者は、石破茂は知らなくても親父さんのことは知っている。あの石破二朗の倅ならば、そんなに変なやつじゃないだろうという安心感もある。まっさらの候補だと、その安心感を得るまでに、俺の計算でだいたい1億8000万円ぐらいはかかる。お前はそれが要らないから、出られるんだ」と言われました。そして続けて、「そう言われて悔しかったら、今すぐ鳥取に帰って、毎日毎日、くまなく挨拶回りをしろ」と言いました。

あとから聞いたところによると、羽田孜先生も小沢一郎先生も、いわゆる二世、三世の候補者には、同じことを仰っていたそうです。「握った手の数、歩いた家の数しか票は出ない。余計なことは考えずにともかく歩け」ということでした。

鳥取県庁で記者会見した後、すぐに鳥取県の中でもいちばん岡山県境に近い集落に行き、一軒ずつ回りました。次の日にならないと、私が衆院に出るという記事にも接することがないわけで、「あなた誰?」という中で、初めて挨拶回りをしました。

選挙活動
写真=iStock.com/tsuyoshi_kinjyo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tsuyoshi_kinjyo

■5万4000軒を訪ね歩いて得た票数

地域の支援者の方々と一緒に今日は200軒、次の日は300軒とひたすら選挙区を回りました。86年の選挙までに5万4000軒歩いて、獲得したのは5万6534票でしたから、まさに角栄先生の言葉通りの結果になりました。この「常に有権者に接し、国民の声を直接吸い上げることが政治の原点だ」という教えがなければ、私は絶対に国会議員になれていなかったでしょう。

その後、選挙区での日々を送る中、角栄先生にお会いするチャンスもありませんでした。

元気な角栄先生に最後にお会いしたのは、85年2月、確か倒れられる2週間前くらいのことでした。

朝、目白に呼ばれて伺うと、いつもであればお客さんが引きも切らずで待合室が満員だったのに、その日は閑散としていました。竹下先生の派中派である「創政会」結成が表面化した後のタイミングでした。あれだけ賑わっていた目白のこの寂寞とした雰囲気は何だろう。権力の遷移というものの凄まじさを体感したように思いました。

待たされることもなくいつもの応接室に行くと、角栄先生は朝だというのにオールドパーを飲んでおられました。いつもの先生とは全然違う感じで、話が弾むということもなく、一抹の不安を感じながら、私は目白を後にしました。

■権力というのはかくも儚いものなのか

しばらくたって角栄先生が倒れた、というニュースを見て、すぐに八尋護さん(小沢一郎氏の「金庫番」と呼ばれた人物)に連絡をとりました。

石破茂『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)
石破茂『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)

「会うことはできないだろうが、入院先の逓信病院までなら来てもいいぞ」と言われ、選挙区回りの日程を変更して病院まで見舞いに行きました。2時間待っても、3時間待っても会えない中で、八尋さんだったか、秘書の朝賀昭さんだったか覚えていませんが、「石破、こんなところにいないで、親父のために選挙を頑張れよ」と声をかけられ、背中を押されるようにして選挙区に帰りました。

そして、86年7月6日の衆参ダブル選挙で初当選して上京し、最初に伺ったのが目白でした。その時は田中眞紀子さんの夫の直紀さんが2期目の当選を果たし、直紀さん、真紀子さんご夫妻を中心に、「おめでとうございます」という人がいっぱい来ていましたが、角栄先生を訪ねてきていた人はいなかったようでした。

私も当選したばかりで、まだバッジもつけていませんでした。誰も知らないし、声をかけてもらうこともありませんでした。結局、角栄先生に会えるわけでもなく、しょんぼり帰りました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。平家物語ではありませんが、あの角栄先生の絶頂期を知る者の一人としては、権力というのはかくも儚いものなのか、ということを実感したものでした。

その後、角栄先生にお会いできることはついぞなく、その間、リクルート事件があり、ついに自民党が政権の座から滑り落ち、田中派にもいたことのある細川護熙先生を首相とした連立政権ができます。1993年12月16日、角栄先生が亡くなったのは、そういう一連の大政局の中で、奇しくも私が自民党を離党した日でした。

----------

石破 茂(いしば・しげる)
衆議院議員
1957(昭和32)年生まれ、鳥取県出身。慶應義塾大学法学部卒。1986年衆議院議員に全国最年少で初当選。防衛大臣、農林水産大臣、地方創生・国家戦略特別区域担当大臣などを歴任。著書に『国防』『国難』『日本列島創生論』『政策至上主義』など。

----------

(衆議院議員 石破 茂)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください