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「私はアンドロイドになりたい」家を破壊する公務員の父を"退治"するため23歳娘がホームセンターで買った凶器

プレジデントオンライン / 2024年9月14日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kateryna Kukota

現在29歳の女性は小さい頃から父親の怒鳴り声と母親の金切り声を聞いて育った。公務員の父親は「頭のおかしいヤバい奴」、母親は「ヒステリックでブランド好きの聞かん坊」。暴力と暴言が絶えない家の中に安らぎはなかった。やがて父親は仕事のストレスでうつ病になり、中学生になった女性もうつ病に。だが、母親は自分の味方にはなってくれなかった――。(前編/全2回)
ある家庭では、ひきこもりの子どもを「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体的事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破る術を模索したい。今回は、父親を「殺したい」と思うほどの憎悪を抱える現在29歳の女性の家庭のタブーを取り上げる。

■父親を殺そうと思った娘

東北地方在住の大川奈々さん(仮名・29歳)は23歳の頃、父親を殺そうと思い、ホームセンターで包丁を購入した。

しかし、実行には移さなかった。

「自分で殺した先にある未来と、ただ死ぬのを待つ未来を比べた結果、自分で殺すのはコスパが悪いと思ったからです」

奈々さんは現在、「父が死んでからようやく、私の人生が始まる」と考えているという。

奈々さんと筆者は、AbemaPrimeへの出演を機に知り合った。彼女の父親は、現在70代。大学を卒業した後、地方公務員になり、60歳で定年退職した後は再任用で2年働き、5〜6年実家の農業を手伝い、現在は介護施設のドライバーをしている。

父親は外面が良く物腰柔らかで、職場では好印象。35歳を過ぎても独身だった父親に、上司がお見合いを勧めたことで母親と知り合ったようだ。

「父には昔、結婚したかった女性がいたらしいのですが、中国人だったため、祖母から『頼むから日本人にしてくれ』と懇願されたそうです。それで父は仕方なく中国人女性と別れ、お見合いで知り合った母との結婚を決めた……というようなことを言っていました」

一方の母親は、父親とお見合いをする前にも複数回お見合いをしていたという。

「母は少なくとも3回以上はお見合いをしているはずです。なかなか決まらなかったのは、母がわがままだったからだと想像しています。当時母はお見合いに疲れていて、父は収入が安定している公務員だったため、周囲からもお勧めされて、母は父に決めたのだと思います」

お見合いから数カ月後、父親37歳、母親29歳で結婚。約5年後に奈々さんが生まれた。

■情緒不安定な父親とわがままな母親

ところが奈々さんが物心ついた時、すでに両親の仲は険悪だった。

「父は、何か気に入らないことがあると、大声でキレたり物にあたったりして、年に1〜2回、家の中で大暴れするんですが、一通り暴れた後は、一部始終を覚えていないんです。普段から両親は喧嘩が絶えず、父の怒鳴り声と母の金切り声を聞いて育ちました。幼い頃は、何が原因で喧嘩しているのか分かりませんでしたが、とにかく恐怖で、私は自分の部屋で布団にくるまって一人で泣いていました」

父親は職場では猫を被っていたようだが、家族でファミレスに行くと、「写真と違う」「量が少ない」など、客の立場を利用して高圧的な態度に出ることがしばしばあった。また、かかりつけの病院などでも、主治医に喧嘩を売り、何度か出禁になっているようだ。

「『お客様は神様』という言葉がありますが、これはあくまでも従業員側の心がけのセリフであって、お客側が言うのは違うと私は思っているのですが、父はお客の立場で『お客様は神様』だと本気で思っている節があり、『父は頭がおかしいんだな』と思います。父は『無理を通せば道理が引っ込む』を地で行くタイプなので、身内にとっては『手に負えない問題児』でした」

父親は自分のほうが立場的に下の場合、相手には腰が低く、優しく振る舞うが、客や患者という立場を得ると、それを笠に着て横暴を通そうとする「ハラスメント気質」があった。

「母は母で、ヒステリックで聞かん坊なところがありました。ど根性だけで生きていて、へこたれないタフな性格で、ブランド物のバッグなどを持っている割には堅実な考え方をするけれど、自分に甘いところがある人だと思います。私が風邪をひいて母にうつってしまったことが何度かあるのですが、その度に母はブチギレて変な絡み方をしてきました。そういう時、私は意味が分からなさすぎて思考がフリーズしてしまいます。結局、母の機嫌が良くなるまでは距離を置いて、放っておくことしかできませんでした」

母親は結婚前、ピアノ講師やピアノ奏者の仕事をしており、結婚後も働きに出たかったが、父親に「子どもが中学生になるまでは家にいてほしい」と言われ、許されなかったらしい。

「母によると、父は実は公務員の仕事に向いていなくて、ものすごくストレスを溜め込んで働いているから、ストレス発散のために時々家で暴れるのではないかと……。暴れる時は、大声を上げながら炊飯器を床に叩きつけたり、階段の手すりの支柱をへし折ったり、泣きわめきながら食器やフライパンなどを壁に投げつけたりしていました。あとで父に言うと、暴れたこと自体を覚えていないばかりか、『人に当たっていないんだからいいだろう』と平然と言われました」

フライパン
写真=iStock.com/ItsTania
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ItsTania

■うちのパパはヤバい奴なのかもしれない

そんな両親でも、奈々さんには幸せな思い出はあった。

「小さい頃はよく父に肩車をしてもらいましたし、家族3人で遊園地に行った記憶もあります。でも、物心ついていろいろわかるようになってくると、どうしても父といると、どこに地雷があるのかわからないので気を遣わなくてはならず、メンタル面のケアをしているような感覚になり、精神的に疲弊してしまいました」

父親の肩の上に乗る子供
写真=iStock.com/Wojciech Kozielczyk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Wojciech Kozielczyk

両親は、顔を合わせれば喧嘩になり、父親は「お前はママみたいになるなよ!」「お前のママは俺が稼いだお金で無駄遣いばかりしている悪い嫁だ!」と母親の悪口を奈々さんに吹き込む。母親は母親で、「パパは頭がおかしい!」「寝ている時に頭を踏まれた!」などと、父親の愚痴を延々と奈々さんに聞かせ続けた。

「母のことを父に否定された時も、父のことを母に否定された時も、どういうわけか、自分自身が否定されているように感じました。苦しかったですが、子どもの頃からすでに『人生=苦しいもの』という思い込みのようなものが私の中にあり、苦しいことも苦しいと思えずにいたような気がします。ずっと、ロボットやアンドロイドになりたかったです。怒りや悲しみ、喜びさえ、感情のすべてを要らないものだと考えていました。おそらく、『もうこれ以上苦しみたくない』と思っていたのだと思います」

奈々さんは、父親が「しつけが良さそうだから」母親が「英語を学べるから」という理由で選んだ幼稚園に通い、そのまま同じ系列の私立の小学校に進学。クラスメイトや友だちと話しているうちに、「うちのパパはヤバい奴なのかもしれない」と思うようになっていく。

「3年か4年生頃だったでしょうか。友だちたちは、親に『叱られる』ことはあっても、『感情任せにものすごい剣幕で怒鳴られる』ことはない。また、年に1〜2回だとしても、家の中で物にあたって壊すほど激しく暴れるということもしない……ということに気づいてしまったのです。それと同時に、『うちの父がヤバい奴だということは、周囲にバレてはいけない』という空気が家の中にあることにも気づきました。今思えば、それは洗脳に近いのではないかと思います」

小学校で奈々さんは、問題児とされている子とつるみ、“ちょっとした悪いこと”をするようになっていった。“ちょっとした悪いこと”とは、学校に持ってきてはいけないとされている、勉強に関係ないものを持ち込むことだった。

「当時私は、“いかにも平和ボケしている同級生たち”に憧れと同時に、嫉妬や憎しみのようなものも抱いていました。どうせバレて叱られるのに、なぜか“ちょっとした悪いこと”に惹かれている自分がいました。叱ってもらいたいと思うほど、学校の先生にかまってもらいたかったのかもしれません」

“ちょっとした悪いこと”がやめられないのは、他人から命令されると断れないという性格も手伝っていたようだ。それは、身内に対しては自分の意見を強引に押し通そうとする、両親からの悪影響に間違いなかった。

■物はどうせいつか壊れるもの

奈々さんにはお小遣いは与えられていたが、必ずしも好きなものを買うことはできなかった。父親が「あれはダメ、これもダメ、こっちにしろ」と指図し、その通りにしないとどうなるかわからない恐怖から従うしかなかったのだ。

「小さい頃はセーラームーンが大好きで、母が買い与えてくれたセーラームーンの服をよく着ていました。父は、私が好きなものに理解を示してくれたことはないと思います。好きなものというか、『これだけは大切にしたい』と思うものがかつては私にもあったと思うのですが、父がたびたび家の中で暴れて、さまざまな物を壊すので、次第に、『これだけは大切にしたい』と思うものを持つことを諦めるようになっていきました。『物はどうせ、いつか壊れるものだから』と……」

筆者は奈々さんに、具体的には何歳くらいの頃、どんなものを壊されたか訊ねたが、

「お気に入りのお皿……くらいしか覚えていません。あまりにショッキングなこと過ぎて、忘れてしまっているのかもしれません……」

と答えた。

奈々さんに取材をしていると、度々「覚えていません」「思い出せません」ということがあった。もしかしたら奈々さんは、解離の症状があるのではないかと思った。

奈々さんが小学校に上がってしばらくすると、母親は自宅でピアノ教室や学習塾を開いた。忙しくなってきたせいか、母親は毎週日曜日を「家事お休みデー」と決め、掃除や洗濯はもちろん、料理まで、一切の家事をしなくなる。そのため日曜の奈々さんの食事は、菓子パンやスナック菓子。父親は、土日は自分の実家の農業を手伝いに行っていたため、「家事お休みデー」のことは知らなかった。

菓子パン
写真=iStock.com/Asobinin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Asobinin

■「うつ病」になった父娘

幼稚園から同じ系列の私立の中学に通っていた奈々さんだったが、3年生になると高校受験のため、母親に塾に入れられる。

同じ頃、50代後半の父親が仕事(公務員)のストレスで精神的に疲弊し、仕事を休みがちになる。病院を受診すると、「うつ病」と診断された。

ある日、体調が悪かった奈々さんは、「今日は塾に行きたくない!」と訴えた。しかし母親は、その言葉を無視。奈々さんを無理やり車に乗せ、塾に連れて行った。

「母ですら私の味方にはなってくれないのだなと思いました。塾の先生方は、私の体調が悪いことには気づいていたようでした。今までならもっと速く解けていた計算問題が、明らかに解くのが遅くなっていたからです。私は、“脳が情報を受け付けてくれない”といった初めての感覚を覚え、愕然としました。その時すでに私は、『うつ病』だったのではないかと思います」

「うつ病」と診断された夫と、診断されてはいないまでも、「うつ病」のような症状の娘。具合の悪い2人を1人でケアすることは無理だと判断した母親は、父親には車で40分程度離れた実家に移るよう言いくるめ、事実上別居状態になった。(以下、後編に続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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