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水深100メートルを素潜りすると肉体はどうなるのか…ダイバー・廣瀬花子が到達した「海に溶ける」の意味

プレジデントオンライン / 2024年10月13日 16時15分

中米・バハマの「ディーンズ・ブルー・ホール」(写真=Ton Engwirda/CC-BY-SA-3.0-NL/Wikimedia Commons)

【連載 極地志願 第2回】人はなぜ自らの限界を試そうとするのか。フリーダイバーの廣瀬花子さんは、2017年に世界女子史上2人目となる深さ100メートルの潜水を成し遂げた。廣瀬さんが「体が落ちていくような感覚」だという水深100メートルの世界とは、一体どんなものだったのか――。(文・聞き手=ノンフィクション作家・稲泉連)(前編/全2回)

■世界で最も深い「海の洞穴」

中米・バハマのロングアイランドにある「ディーンズ・ブルー・ホール」――。

フリーダイバーの廣瀬花子はその壮大な海の洞穴に来ると、いつも不思議な感覚が体の全身を走っていくように感じる、と言う。

入り江の背後が岩壁に囲まれた空間に、海風が吹き込んでくる。一部が外洋とつながっている切り立った岩の下には、あまりに深い藍色の海が口を開けている。絶え間なく吹き込んでくる風が滞留しているのか、岩壁の内側では空気の濃密な流れが渦を巻いているようだ。「ここは不思議でミステリアスで、神聖な場所。いろんな空気が流れているんだろうな、と思える場所」――そんな思いを彼女は抱くのだ。

ディーンズ・ブルー・ホールは、世界で最も深い「ブルーホール」として知られる場所だ。「ブルーホール」とは地面が海中に水没してできたもので、上空から見るとぽっかりと海面に円形の縦穴が空いているように見える。巨大な洞窟や鍾乳洞が海中に沈んで形成される自然の驚異とも言える地形である。

バハマのディーンズ・ブルー・ホールは直径約100メートル、穴の深さは約200メートル。その神秘的な美しさから、世界中のダイバーの憧れの場所として知られている。

そこでは毎年4月、世界ランキングの上位から選抜されたフリーダイビングのトップアスリートが集まる世界大会が開催されてきた。

■世界一のフリーダイバー・廣瀬花子

息を止めて水中に潜り、可能な限りの深さを目指す――。フリーダイビングの潜水の競技には足にフィンを付けて潜行と浮上を行うコンスタントウェイト・ウィズフィン(CWT)、フィンを使用せずに海上から垂らされたガイドロープを手で引きながら潜るフリーイマージョン(FIM)、フィンを使用せずに行うコンスタントウェイト・ノーフィン(CNF)の3種類がある。

日本のトップフリーダイバーである廣瀬は、2016年のバーティカルブルーのCWTにおいて、1度目の潜水で97メートル、そして、2度目の潜水では99メートルという記録を出した。そして、翌年の2017年の大会ではこの自己ベストを更新する100メートル超えのダイブを目指し、一年間にわたってトレーニングを続けた。100メートルを超えるダイブは、当時の世界記録に当たる深さだった。

「2016年の大会のときは――」と彼女は振り返る。

「あと1メートルを躊躇する迷いがあって、どうしても自分で決められなかった。100メートルはそのときの私にとって、どうしてもベットできなかった数字だったんです」

フリーダイビングの潜水競技のルールでは、自身の潜る距離を事前に申告する。CWTではダイバーはフィンとウェイトを身に付け、海面からガイドロープに沿って一気に下降していく。そして、ターゲットとなる深度に到達した証となるタグを取った後、同じルートを通って浮上する。浮上の際に浮力補助具を使用することはできず、ロープをつかんでもいけない。100メートルのダイブともなれば、呼吸停止時間は3分以上にもなる。

■「世界記録」に挑戦しなかった理由

廣瀬は2016年のバーティカルブルーに出場した際、100メートルという深度を思い切って申告することもできたはずだった。だが、結果的にそれをしなかった理由について、彼女は次のように語った。

「99メートルと100メートルの違いは、理論的にはほとんど変わりません。水圧や身体が受ける影響は時間にして2~3秒、ちょっと増えるかなというくらいのものです。でも、そのことを頭では分かっていても、『100メートル』という記録は心に重くのしかかっていました。『まだ今の私には届かないところだな』という思いがあって、その記録に挑むのはもう少し後に取っておこうかな、と感じたんです。翌年、新しく100という数字からスタートして、次のステージに入っていくべきだ、と自分の心と身体が言っているような感覚でしたね」

そして、2016年の大会の後、廣瀬は明確に「100メートルオーバー」を意識したのである。当時の女子のCWTの世界記録は101メートル。それを超えることを目標に設定し、「世界記録に向けてのトレーニング」を行っていく。実際の記録そのものよりも、その「未知」の場所に至るまでのプロセスこそが自分には必要だった、と彼女は言うのだった。

そして2017年4月、2年連続の出場となるバーティカルブルーで、廣瀬は100メートルを申告した。このとき、100メートルをベットした時点で、すでに一つの目標を乗り越えた満足感が胸裏に広がってきた、と話す。

■「いいダイブだった」と確かに思えた瞬間

「確信をもって迷いなく『100メートル』と申告できた時点で、ダイブの半分は成功したような気持ちでした。フリーダイビングの世界には、『いいダイブ』という言葉があるんです。ダイブの始まりから終わりまでの感情が整っていると、潜り終えた時に『いいダイブだった』と確かに思える。そんな瞬間を私は求めているんです。

失敗したらどうしよう、とか、うまくいかなかったらどうしよう、という気持ちが心に生じている状態では、たとえ記録が出せたとしても、ダイブがとても『人間的』になってしまう。一方で『いいダイブ』は本能的です。まるで海に溶け込むように自然とボトムにたどり着き、気づいたら水面に上がってきていた、という感覚があります。100メートルという記録よりも、その場所に迷いなくたどり着いて戻ってこられるかどうか、ということを私は大事にしたかった。だから、2017年のバーティカルブルーのとき、そんな心の状態を1年かけて自分が作れたこと自体に、私はすでに満足していました」

廣瀬はこの日、1度目のダイブで100メートルを記録し、2度目のダイブでは女子の世界記録となる103メートルという深度に到達した。この記録は続いてダイブを行ったイタリア人ダイバーのアレッシア・ゼッキーニによって破られるが、そのとき廣瀬は確かに自分にとっての「極地」と言える場所にたどり着いたのである。

当時の女子世界記録、103メートルを成し遂げ、仲間と喜びを分かち合う廣瀬さん
当時の女子世界記録、103メートルを成し遂げ、仲間と喜びを分かち合う廣瀬さん(「HANAKO」YouTubeチャンネルより)

では、このとき彼女は100メートルという深海に潜ることで、どのような世界を体験したのだろうか。

■心を平常な状態に保つことは「技術」

フリーダイビングはダイバーの身体能力はもちろんのこと、潜る際のメンタルの状態をいかに整えるかが重要な意味を持つ競技だ。

水中では身体をリラックスさせると、酸素消費量を抑えてより深く潜ることができる。一方で潜水中にストレスや不安を感じると心拍数が上がり、逆に酸素の消費量が増えてしまう。よって、ダイブの際に心を平常な状態に保つことは、ダイバーに求められる一つの「技術」ということになる。

2017年4月、大会のひと月ほど前にバハマに入国した廣瀬は、同じくバーティカルブルーに選抜された3人のメンバーとともに、ロングアイランドの友人に借りた一軒家をシェアして過ごした。

毎朝、田舎道を車で20分ほど移動してブルーホールに向かい、トレーニングを行う。そして、地元の野菜や鶏を調理し、ときには海で魚を突く。

潜り、食べ、眠る――。

仲間とともに送るそんな「シンプル」な生活は、大会の日に向けたメンタルを整えるために大切な時間となった。

「ダイブにはその日、その日の自分のあり方が確実に影響します。その意味でバーティカルブルーは、記録に挑戦する上ではとても良い環境だと言えると思いますね。一日の中で、自由にトレーニングに集中できる素朴な生活には、ほとんどストレスというものがありませんから。食べることで感じる幸福や自然への感謝。そうした感情を少しずつ感じていく時間も、『いいダイブ』を作り上げることにつながっているんです」

夕暮れ時のバハマのビーチ
写真=iStock.com/SHansche
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SHansche

■不安や緊張を感じているのも「今の自分」の姿

――では、そうして始まったバーティカルブルーの際、大会当日の廣瀬さんはどのように心の状態を整えていったのでしょうか。

「フリーダイビングでは、できるだけ静かな状態、例えば瞑想状態を作り上げて、自分の心拍をしっかりとコントロールして潜る必要があります。人によっては瞑想や呼吸法で心拍を落とすのですが、私の場合は『これをしてから潜る』というルーティンは特にありません。風の音や波の音、人の声を感じながら、その瞬間に集中するようにしています。

これまでたどり着いたことのない深さを目指すわけですから、緊張感はもちろん生じてきます。フリーダイビングでは不安や緊張は心拍数を上げてしまうので、できる限りリラックスした状態を保つことが大事であることは確かです。でも、そんなとき、『どうやってこの緊張を落ち着かせようか』とは考えないようにしていますね。

不安や緊張やプレッシャーを感じているのも『今の自分』の姿なので、『緊張しているな』『プレッシャーを感じているな』とその瞬間の感情をありのままに捉えるようにしているからです。あるがままの自分を受け入れる。緊張もプレッシャーも、これからのダイブに必要なものだと受け入れていく、という感覚を持つようにしています」

■「水深100メートルの世界」で体験したこと

――2017年のバーティカルブルーの100メートルのダイブで、廣瀬さんはどのような世界を体験したのでしょうか。

「バハマで行われるバーティカルブルーの会場は、縦穴のブルーホールで行われます。これが他の場所、例えば外洋で行われる大会だと潮の流れがありますし、海の中も30メートル~40メートルくらいまで光が差し込んで、明るさを感じられるんです。

一方でブルーホールは潜り始めると本当に真っ暗。20メートルくらいまではうっすらと光が差していますが、そこからはどんどん闇が深くなっていって、30メートルを超えると、目を閉じても開いても変わらないような暗さになっていくんです。私たちはロープに沿って潜っていくので、そのロープに視界のフォーカスを当てています。でも、ブルーホールではロープすら見えなくなってくほどです。

そして、身体は40メートルを超えたところから、落ちていくような感覚を覚え始めます。そこはだんだんと体が沈んでいくエリアで、50メートルを超えれば、もうキックをせずに動きを止めても海の底へ、底へと落ちていくんです」

2017年のバーティカルブルーで潜水する廣瀬さん
2017年のバーティカルブルーで潜水する廣瀬さん(「HANAKO」YouTubeチャンネルより)

■「体が落ちていくような感覚」とは

この「体が落ちていく感覚」を覚える「フリーフォール」の段階になると、後は集中をしながら耳抜きを続けるだけだ。そして、廣瀬は「40メートルから100メートルまでの間のその1分くらいは、まさに『本能を楽しめる時間』」だと語る。

2017年のバーティカルブルーの際も、廣瀬は深度が40メートルを超えたところでキックの動きを止めた。「それから先は『夢の中』」と彼女は表現する。

人間を含む哺乳類の自律神経反射の一つに、「潜水反射」というものがある。顔が冷たい水に触れると心拍数が低下し、血管が収縮して優先的に心臓や脳など重要な臓器に血液を送り込むようになる生理的なメカニズムである。水中での生存能力を高めるために、発達した反射機能だとされる。

■血流がだんだんと心臓に集中していく

フリーダイバーは普段の潜水トレーニングによって、水圧に耐えられる「幅」を強くしていく。水の中では水深10メートルで2倍、20メートルでは3倍の水圧が体にかかる。

「人間の肺は水深30メートルを超えると『ぺちゃんこ』になりますが、その水圧から体を守ろうとする反射反応が同時に起こります。なので、より深く潜るために、潜水反射をきちんと起こせるようにトレーニングで体を順応させ、高い水圧を受けても耐えられるようにしていくわけですね。

100メートルオーバーの水深を目指していくときは、『フリーフォール』が始まる30メートルを超え、40メートル、50メートルと潜るにつれて、心拍が下がっていきます。すると、心臓の音がはっきりと強く聞こえ、身体をめぐる血流がだんだんと心臓に集中していくのを感じます。

私はダイブするときにはリラックスして『眠った状態』を作り出すようにしています。40メートル以降からはキックの動きも止めて、身体の力を抜き、ただただ海の底へと落ちていく。そのときの感覚を言葉にすると、さっき言ったような『夢の中』という表現が思い浮かぶんですよ。

身体が何も重力をもっていなくて、静寂の中で心臓の音だけが聞こえ、手足の血流がだんだんと細くなっていく――。自分の身体を守るために手足の血流が、スーッと心臓や肺とか、重要な臓器の部分に集中していく。深さが増すに連れて血流の感覚がついに消えてしまうときは、自分が海に吸い込まれて、その一部になっていくような気がします」

2017年のバーティカルブルーで廣瀬さんが「ボトム」に到達した瞬間
2017年のバーティカルブルーで廣瀬さんが「ボトム」に到達した瞬間(「HANAKO」YouTubeチャンネルより)

■「100メートル」に到達したとき、我に返った

2017年のバーティカルブルーの日、廣瀬はベットした「100メートル」の深度に到達したとき、「あ、ついた」と正気が戻るように思ったという。「ボトム」にはぼんやりとライトがつけられているため、暗闇の中で我に返ったのだ。

「感覚としては、そのままずっと潜っていきたいという気持ちでした。本当に『いいダイブ』に入りこめたときは、ロープが切れる『ボトム』がなかったら、きっとそのままどこまでも落ちて行ってしまうんだろうな、って思います。それまで眠ったような状態で海の底に向かっていて、初めて『あ、そういえば大会中だったんだ』と思い出してタグを取ったのを覚えています」

(後編に続く)

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廣瀬 花子(ひろせ・はなこ)
フリーダイバー、水中モデル
1986年生まれ。幼少期から御蔵島のイルカと泳ぎフリーダイビングの素養を身につける。高校在学中に初めてフリーダイビングスクールに参加。2007年公認記録会においてCWT(垂直潜水)初挑戦にして-35mの成績を残す。2010年に沖縄で開催された世界選手権大会での総合優勝を皮切りに、日本代表選手として国内外の大会で数々の日本記録を樹立。世界選手権では日本代表チーム「人魚ジャパン」のメンバーとして3度の金メダリストに輝く。2017年の国際大会で-103mへの深度潜水の世界記録を樹立。深度100mを越える記録は世界女子史上2人目。2018年には-106mへの潜水を成功させ、再び当時の世界記録を樹立した。現在も世界記録更新を目指し競技活動を行うかたわら、フリーダイビングのインストラクターとして全国各地でフリーダイビングスクールやレッスンを行い、後進の選手育成にも努めている。

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稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年東京生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など。近刊に『サーカスの子』(講談社)がある。

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(フリーダイバー、水中モデル 廣瀬 花子、ノンフィクション作家 稲泉 連)

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