「性愛の喜びか安定か」の二択で悩む「源氏物語」最後のヒロイン…紫式部のメッセージが今の時代に響く理由
プレジデントオンライン / 2024年10月14日 17時15分
※本稿は『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 光る君へ〈紫式部とその時代〉』(NHK出版)の一部を再編集したものです。
■紫式部は「結婚幻想にとらわれぬリアルな眼」をもっていた
「どんなに男と女が主観的に愛し合っていても、男女が分断されている社会構造と文化形態、生活様式の中ではどうしようもなく、いすかの嘴(くちばし)のくいちがいになってしまうことを描ききっている。が、このような描写は、結婚幻想にとらわれぬリアルな眼がなければ、なしえない」(『紫式部のメッセージ』)
30年以上前、フェミニズムの視点で『源氏物語』を批評し、「一千年前のフェミニストであった紫式部」のメッセージを読み取った、フェミニズム批評の先駆者、駒尺喜美氏のメッセージである。その文章中にある「紫式部は同性愛だった」との指摘にはいささか疑問符をもちつつも、目からウロコの衝撃だった。しかし、当時の日本文学研究者の方々に感想を聞くと、男女とも首を傾ける人が多かった。いわばスルーだったと思う。
平安時代、漢字は真名(まな)・男手(おとこで)、平仮名は仮名(かな)・女手(おんなで)と呼ばれた。男手・女手の初見は、10世紀後期に成立していたとされる『宇津保(うつほ)物語』で、皇太子が手本をみて「男手も女手も習った」と出てくる。男性が女手を書くのだから、女手は「生物学的女が書く字」のことではない。『源氏物語』では、光源氏も女手を書いている。まさに、男手、女手は、当時の貴族たちが決めた記号、ジェンダーである。
■「女手」と呼ばれた平仮名は、女性だけが書いたわけではない
男は、漢字で公的文書や日記・漢詩などを書き、和歌や手紙は、仮名で書く。では、女性は漢字で書かれた漢籍や書を学び、書かなかったのか。『源氏物語』の作者、紫式部は、弟の惟規(のぶのり)が父為時(ためとき)から漢籍の素読を学んでいた時、かたわらで聞いていた紫式部の方が先に覚えるので、父が「お前が男だったらなあ」と嘆いた話は有名である(『紫式部日記』)。
紫式部は当時の男性が読むべき漢籍は、ほぼすべてマスターしていた。『源氏物語』に漢籍を基にした文章がちりばめられている。しかし、女房生活では、一条天皇が『源氏物語』は「日本紀(にほんぎ)」(日本書紀)に通じていると誉めたため、「日本紀の御局(みつぼね)」とあだ名されたので、「一」という文字も書けない振りをした。
紀貫之(きのつらゆき)は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」と仮名で『土佐(とさ)日記』を書いた。このように男は男手・女手を用途におうじて使っていたのに、女は、漢字・男手から遠ざけられていた。あるいは、男手を知らないふりを装わねばならなかった。
■「物の怪」が生まれるのは、人の心にやましい考えがあるから
そのうえ、紫式部は、人の心を見抜く力、人間観察力、洞察力は鋭い。『紫式部集』にのる歌である。
物の怪のついた醜い女の姿を書いた背後に、鬼の姿の先妻を小法師が縛っているさまを描き、夫はお経を読んで物の怪を退散させようとしている場面の絵を見て
(妻についた物の怪を、夫が亡くなった先妻のせいにして手こずっているのも、実際は自分自身の心の鬼に苦しんでいるということではないでしょうか)
当時の男性の日記にも頻繁に出てくる「物の怪」「鬼」などは、人の心の中にやましい考えがあるからだ、鬼がすんでいるからだ、と見抜いている。『源氏物語』では、光源氏の正妻の葵(あおい)の上が病気で亡くなった時、愛人の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が、無意識のうちに葵の上に嫉妬していた心の底の魂、いわば深層心理が、生霊となって飛んでいき、葵の上を打ち殺したのではないか、と思い悩む場面など、まさに、各々の心の底にひそむ鬼の描写である。しかし、当時の読者たちは、生霊が現実にあり得ることとして読んだのであろう。
■10世紀初頭までは多夫多妻で、女性も自由恋愛ができた
ところで、漢字・真名を男手、平仮名を女手と命名したのは誰か。「唐絵(からえ)」と「やまと絵」の対にならって、漢字は「唐字」、平仮名は「やまと字」と命名・呼称してもよかったではないか。男手・女手は、10世紀後半が初出だった。この頃の歴史的社会背景、とりわけ貴族社会に理由がありそうである。
貴族社会では、朝廷の役職や身分などが、父から息子へと継承される家が成立し始める。自分の官職や財産などを継がせる確実な息子を得るためには、妻が夫以外の男性と性関係を結ぶことを禁止する必要がある。10世紀初頭の『伊勢物語』などには、人ヅマと性関係を持つ話がいっぱいのっており、非難されていない。
「ツマ」とは、男女ともに愛しい相手を呼ぶことばであった。いわば多夫多妻、いわばお互いにツマを何人かもっていた。ところが、10世紀後期頃からツマは妻、女性だけの呼び名になっていく。「人妻(ひとづま)」は今でも使われるのに、「人夫(ひとおっと)」はない。ちょうど、この頃から、貴族層に結婚儀式が定着しはじめる。結婚式をあげ、この女性は僕の妻になったのだから手を出すな」と、告知する。夫による妻の性の独占であり、男性優位社会のたしかな到来である。
■妻の性が夫によって独占され、男性優位社会になった
『源氏物語』が書かれた時代には、結婚式を挙げた女性が正式な妻で、二、三人いる妻のうち、同居の妻が正妻だった。妻が夫以外の男性と性関係をもつと離婚とあいなる。恋多い和泉(いずみ)式部など典型である。ただし、トップ貴族の親王はじめ多くの男と性関係をもっても、最後には裕福な中級貴族の正妻になっており、後世ほど非難はされてはいない。
紫式部は『源氏物語』でどんなメッセージを読者に送ったのか。衝撃だったフェミニズム批評からのメッセージは、その後、ジェンダー分析に引き継がれ、日本文学や女性史研究から多くの成果が出されている。
天皇のキサキ藤壺と源氏とのセックス、密通によって誕生した皇子が冷泉帝となるのは、まさに世襲的父子継承の皇位継承批判であり、最後は、源氏が正妻に迎えた若い三の宮と柏木との密通で薫が誕生するなど、夫による妻の性の独占の失敗である。紫式部は、皇位や貴族官職、政治から女性を排除した父子させている。
さらに、この時代は、和語の「ことば」を駆使した和歌が重要な役目をもっていた。歌の「ことば」をジェンダー分析した、貴重な指摘がなされている。「愛される女」であるために男性が作りあげた「女らしさイデオロギー」満載の『古今和歌集(こきんわかしゅう)』を必修科目として暗記していた女性たちは、「恋」「恋ふ」「思ふ」「知る」など積極的な意思をしめす「ことば」を用いてはいけないことを学んでいたことがわかる、という。女性は考えたり、知ったりしてはいけないのである。
■2人の男に愛される「宇治十帖」のヒロインに託したもの
『源氏物語』では、男の歌と女の歌を使い分けて創作しているが、「宇治十帖(うじじゅうじょう)」では、浮舟はその規範を逸脱し、ジェンダーイデオロギーを乗り越えていく(近藤みゆき「『源氏物語』とジェンダー」)。
親王の娘に生まれたのに母の身分が低く、受領(ずりょう)層の継父のもとで無教養に育った美しい浮舟は、真面目で安定する薫との安穏な生活と、女の扱いがうまく、共寝している絵を描き、自分を思い出すようにと渡す匂宮とのセックスの悦び・性の解放との二股で悩む。
しかし、「思い」、考えた末に、結局、男に頼ることのふがいなさを自覚し、入水し、そして出家する。(自分と同じ)受領階級の女性の活躍が排除された男性優位の貴族社会で女が生きるとはどういうことか、紫式部は問い続けたのではなかろうか。
そして、結局、正妻として幸せだった紫の上も、源氏が政権維持のために身分の高い幼い内親王三の宮を正妻として迎えると、光源氏と同室だった寝殿を三の宮に明け渡し、失意のうちに亡くなることを描く。どんな男女関係も男性優位の社会では、対等な性愛関係を得ることなどできない。女性にとって生きづらい社会である。紫式部のメッセージは、今の社会にも強い響きで伝わってくる。
参考文献:駒沢喜美『紫式部のメッセージ』朝日選書1991年、近藤みゆき「『源氏物語』とジェンダー ――歌ことばが創造する「男」と「女」」『実践女子大学文芸資料研究所年報』第28号、2009年3月
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歴史学者
1947年生まれ。埼玉学園大学名誉教授。専門は平安時代史、女性史。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。文学博士。著書に『家成立史の研究』(校倉書房)、『古代・中世の芸能と買売春』(明石書店)、『平安朝の母と子』『平安朝の女と男』(ともに中公新書)、『藤原彰子』(吉川弘文館)など。
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(歴史学者 服藤 早苗)
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