「現存12天守だけが名城」は大いに間違っている…年末年始に訪れたい「復元天守のお城」ランキングベスト7
プレジデントオンライン / 2024年12月21日 9時15分
■お城における天守の役割
たしかに天守は日本の城のシンボルだが、シンボルにすぎないともいえる。そもそも中世城郭に天守はなかった。近世城郭も防御上重要なのは、石垣や土塁、堀、それらと一体に構えられた櫓や多門、塀、門などだし、政務や居住のために重要なのは御殿だった。
城とは天守のことだと思っている人が少なからずいるが、近世城郭でも、天守が存在しなかった城は少なくない。そうはいってもシンボルはシンボル。店舗にたとえれば、業務上は支障がなくても看板は必要である。だから城をめぐる際、天守の有無を気にする人は多い。
有名なのが現存12天守である。明治維新の時点で全国に数十は存在した天守も、多くは無用の長物として解体されてしまった。
それでも戦前まで20棟が残っていたが、戦災で名古屋城(名古屋市中区)、岡山城(岡山県岡山市)、和歌山城(和歌山県和歌山市)、大垣城(岐阜県大垣市)、水戸城(茨城県水戸市)、広島城(広島市中区)、福山城(広島県福山市)の7棟が失われ、戦後の火災で松前城(北海道松前町)が焼失してしまった。
■訪れるべき「復元天守」7選
結果、残ったのが12だった。北から弘前城(青森県弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県坂井市)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、松江城(島根県松江市)、備中松山城(岡山県高梁市)、丸亀城(香川県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)である。
備中松山城は山中に放置されて倒壊寸前まで朽ち、丸岡城は昭和23年(1948)の福井地震で石垣もろとも倒壊するなど、「残っている」といっても濃淡はあるが、城として現役だったころの部材を用いていまも建っているという点で、いずれも貴重である。
ところが、現在、全国の城には70棟前後の天守がある。大阪城天守閣(大阪市中央区)や郡上八幡城(岐阜県郡上八幡市)、伊賀上野城(三重県伊賀市)など戦前に建てられたものもあるが、多くは戦後の建築だ。
なかには史実と異なる部分が多いものや、史実と無関係のものもあるが、細心の配慮で史実に近づけられたものもある。だが、その区別はなかなかつかないだろうから、訪れる価値がある「復元天守」を7つ選んでお勧めしたい。
■幕末の外観が正確に再現された
第7位は会津若松城(福島県会津若松市)。戊辰戦争の激戦地となった若松城は、明治7年(1874)にすべての建造物が取り壊された。天守は大砲を被弾しながらも、構造上のダメージは最小限だったが、明治政府は「抵抗勢力」のシンボルだった会津若松城を残すことを許さなかったのだ。
それだけに天守再建は会津の人たちの悲願で、昭和32年(1957)の戊辰90周年記念祭を機に再建熱が急上昇。東京工業大学の藤岡通夫教授の設計で、昭和40年(1965)に外観復元された。
天守台は文禄元年(1592)に蒲生氏郷が築いたが、そのときの天守は慶長16年(1611)の地震で損壊。その後、同じ天守台に規模を縮小して建てられ、明治まで維持された。上層ほど小ぶりな層塔型(五重塔のように、同じ型の床面を規則的に小さくしながら積み重ねる構造)の五重天守で、明治初期の鮮明な古写真が複数残っていたのが幸いした。文献資料等も参照し、鉄筋コンクリート造ながら外観がていねいに再現された。
平成23年(2011)には瓦が赤瓦に葺き替えられた。寒冷地の会津では、普通のいぶし瓦では雪解けの際に水が染みこみ、その水が凍って割れやすい。このため釉を塗った赤瓦が葺かれていた。それが再現され、幕末の姿にいっそう近づいている。
■創建当初は日本一の高さだった名城
第6位は昭和35年(1960)に竣工した熊本城(熊本市中央区)で、やはり外観復元の精度が高い。大天守は関ヶ原合戦前後に加藤清正が築造し、建物だけで高さ32.5メートルと、創建当時は豊臣大坂城を抜いて日本一だった。
明治10年(1877)、西南戦争が起きると政府軍の籠城先に選ばれた挙句、籠城前に焼失してしまったが、昭和31年(1956)、市制70周年記念事業での天守再建を公約に掲げた市長のもと、再建へと動き出した。
設計は会津若松城と同じ藤岡教授で、外観を忠実に復元するために、古文書や絵図、古写真等を詳細に研究。明治初年の撮影にしてはかなり鮮明な古写真が役立ったようだ。事前に木造天守の断面図を製作し、さらに内部まで正確に再現した10分の1の精密な軸組模型を組み上げ、細部の意匠まで徹底解析。それが鉄筋コンクリート造に落とし込まれた。
平成28年(2016)の熊本地震で大きな被害を受けたが、耐震性を上げながら真っ先に再整備された。
■最初に木造で復元された
第5位は、天守の木造復元第1号の白河小峰城(福島県白河市)。呼称は「三重櫓」だが事実上の天守だった。
この城も会津若松城同様、戊辰戦争の犠牲になった。白河は新政府軍が会津に侵攻する際の要地で、奥羽列藩同盟との戦いの舞台となり、建造物のほとんどが焼失した。その際に失われた事実上の天守を復元する計画が、平成元年(1989)の白河市制40周年に浮上し、実現したのである。
失われて120年が経ち、古写真等もなかったが、建造物の寸法や材質から、平面や屋根構造の断面までが詳細に記された『白河城御櫓絵図』などを参考にできた。発掘調査では三重櫓の礎石が完全な状態で確認され、その位置等も『白河城御櫓絵図』と一致。寛永年間(1624~44)の建築が戊辰戦争まで残っていたと確認された。
それをもとに復元への道筋が定められ、積み直された石垣上に平成3年(1991)、木造の伝統工法による復元天守が完成した。
■これほど忠実に外観が復元された城はない
第4位は徳川御三家の和歌山城(和歌山県和歌山市)で、昭和33年(1958)に竣工した。弘化3年(1846)に落雷で焼失し、嘉永3年(1850)に完成された天守が戦前まで残っていた。いびつな四角形をした天守曲輪の東南角に建つ三重の大天守は、残る3つの角に建つ二重の小天守、2棟の二重櫓と多門櫓で結ばれ、連立式天守を構成していた。
やはり藤岡教授が設計したこの天守は鉄筋コンクリート造だが、外観が細部までこれほど忠実に再現された例はほかにない。残されていた平面図のほか、旧天守を設計した水島家にあった立面図や断面図、藤岡氏自身が焼失前に撮影した大量の写真などを徹底的に解析したという。
和歌山城の天守台は築造当時の技術が未熟だったため、平面がかなりいびつな不等辺四角形である。それでも大天守は、二重目から上のゆがみが矯正され、結果、余計に造形が複雑化している。小天守と二棟の二重櫓が載る石垣のいびつさはそれ以上だが、先に木造建築の設計図をつくり、いびつな構造を徹底的に再現したという。
■3つの鯱が乗る個性的な櫓
第3位は平成16年(2004)に竣工した新発田城(新潟県新発田市)の事実上の天守、三階櫓を挙げる。明治に取り壊されたこの「天守」は、さまざまな角度から撮られた古写真が残り、平面図や寸法が記載された古絵図や古文書も豊富だった。城下町400周年の平成10年(1998)に復元が検討され、伝統工法で史実に忠実に建てる方針が固まった。
外観は個性豊かで、最上階の屋根は3方向に棟が伸びた「丁」字型の入母屋で、3つの鯱が乗る。また、白漆喰の総塗籠だが、腰壁には平瓦を張った海鼠壁が採用されている。それも初重は平瓦を4段、二重目と三重目は1段貼りつけ、美観が計算されている。
こうした装飾は、オリジナルのプロポーションが再現されてこそ映える。復元にあたっては、古写真から読みとれる形状や寸法比率と復元基本図のあいだに差異がないか、コンピューターグラフィックスを古写真に重ねて確認するなど、精緻な検証がなされた。ただ、本丸跡に自衛隊が駐屯しているため、三階櫓の内部に入れないのが残念なのだが。
■令和の改修工事で往時の姿を取り戻した
第2位は戦災で失われた福山城(広島県福山市)としたい。じつは、昭和41年(1966)に竣工した外観復元天守は、当初は「復元」とは呼べないシロモノだった。
すべての窓に巻きつけられていた銅板は省略され、白壁と黒い窓のコントラストは失われた。とくに最上階は、装飾的な華灯窓や開口部の位置から高欄の色まで変えられてしまった。北面の防御力を増すために張られていた鉄板も、すっかり省略されてしまった。
ところが、令和4年(2022)の築城400年に向けて改修工事が進められ、戦前に近い外観を取り戻した。最大の変化は北面に鉄板を張り、最大の特徴をよみがえらせたことだった。福山市内に鉄板の一部が保存されており、小さな鉄板をすき間なく張り合わせていたと判明。再現可能になったのである。
白く塗られていた北面以外の窓も、窓枠や格子に銅板が巻かれていた戦前の色彩に近づけられた。最上階の華灯窓も、焼失した天守と同じ位置に移された。最上層の木部が、じつはコンクリートで柱のように造形し彩色しただけであるなど、突っ込みどころはあるものの、意匠を改めただけで印象が大きく変わることに驚かされる。
■市民の力と最新技術で完全復元
第1位には解体前の姿がかなり正確にわかり、平成16年(2004)、江戸時代の雄姿が精密に再現された大洲城(愛媛県大洲市)を挙げたい。木造部分が19メートル超という高さなのは、ほかの木造復元天守を圧している。
大洲城は明治初年に廃城になるも、天守は残されていたが、明治20年代以降に解体された。残念だが、長く残されたおかげで古写真が多く残った。木造復元は平成6年(1994)に完成した掛川城天守に触発されたという。同城を設計した宮上茂隆氏に尋ねると、史料に恵まれているので完璧に復元できるといわれ、大洲市は天守閣再建検討委員会を設立し、宮上氏に顧問就任を依頼。市制50周年の平成16年完成をめざして動き出した。
史料としては複数の絵図のほか、木製の模型(天守雛形)もあり、往時の梁組や内部構造も確認できた。加えて外観を伝える複数の写真があった。約13億円の事業費は、市の一般会計予算を1億円ずつ8年間計上。残りは5億2800万円の寄附金でまかなった。
その後、建築基準法による許認可だけで2年を費やし、その間に宮上氏が急逝するなど困難が続いたが、2年半の工期を経て完成。伊予(愛媛県)でいちばんの大河、肱川対岸の比高30メートルほどの丘上に、現存する2基の櫓をしたがえて雄姿を見せている。
内部は、中央に大きな心柱(通し柱)が据えられ、それをめぐるように階段が架けられ、その周囲が一部、吹き抜けになっている。こうした構造は、先述の天守雛形で確認できたものだ。しかし、2階から上は正確な広さや高さがわからなかったため、コンピューターグラフィックスによる解析に古写真を重ね合わせるなどして、寸法が算出された。史料を最新技術で読み解き、精密な復元が実現したのである。
----------
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
----------
(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
外部リンク
この記事に関連するニュース
-
冬に観光客を呼び込め 鶴ヶ城でキャッスルマーケット・福島県会津若松市
福島中央テレビニュース / 2024年12月21日 10時19分
-
【最大の謎】福岡城に天守閣はあったのか 新たな史料を発見「天守をお建てになった」 市や財界は復元に前向き…困難も
FBS福岡放送ニュース / 2024年12月10日 17時50分
-
【福島県会津】従業員数ランキングを公開!/SalesNow DBレポート
PR TIMES / 2024年12月8日 17時15分
-
「新しい資料で建物の色が正確に」 首里城復元 歴史研究家と宮大工語る 那覇市でイベント
沖縄タイムス+プラス / 2024年11月25日 13時19分
-
やっぱり田中角栄は人を使う天才だった…後輩議員のポケットに100万円の束をぎゅっと入れて言った一言
プレジデントオンライン / 2024年11月23日 7時15分
ランキング
-
1災害時にも役立つ! 「ハンドソープ」の便利な持ち歩き方 警視庁が公開
オトナンサー / 2024年12月20日 22時10分
-
2【美容室】どうせ髪切るし…「寝癖」がひどいまま来店はOK? 直すべきか 本音を現役美容師に聞く
オトナンサー / 2024年12月20日 20時50分
-
3ハッピーセット絵本に「誤植」複数…… マクドナルド謝罪「お詫び申し上げます」
ねとらぼ / 2024年12月20日 19時26分
-
4身近に潜む『骨粗しょう症』! - どんな人がなりやすい? 自宅でできる予防法とは?
マイナビニュース / 2024年12月21日 10時30分
-
5トヨタ『エスティマ』復活最新スクープ!…生まれ変わった天才タマゴに採用される技術とは
レスポンス / 2024年12月21日 7時0分
記事ミッション中・・・
記事にリアクションする
記事ミッション中・・・
記事にリアクションする
エラーが発生しました
ページを再読み込みして
ください