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トイレへの行き方も、最愛の人の死も忘れてしまったが…治療のために脳の一部を切除した男性の数奇な人生

プレジデントオンライン / 2024年12月23日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/adventtr

脳にある海馬は、記憶形成において重要な役割を担っている。その機能の解明には1人の患者が大きくかかわっていることをご存じだろうか。京都大学名誉教授の乾敏郎さんと、臨床心理士の門脇加江子さんの共著『脳の本質』(中公新書)より、一部を紹介する――。(第1回)

■どうすれば記憶力をもっと高めることができるのか

誰しも、自分の記憶力がもっと優れていたならと思った経験があるだろう。古来さまざまな記憶術やトレーニングが試されてきたが、残念ながら、今のところ特効薬といえる成果はないようだ。

私たちの生活の中で、記憶が果たす役割はとてつもなく大きい。細胞の集合体である私たちの脳は、どのようにして膨大な記憶を貯蔵しているのか。コンピュータのハードディスクのような記憶装置が内蔵されているのだろうか。

1891年、ハーバード大学の教授ウィリアム・ジェームズは、著書『心理学の原理』の中で、記憶について次のように記している。記憶には、意識されて保持される一次記憶と、まだ意識上にのぼらないが保持されている二次記憶の二つがあるとした。

この一次記憶と二次記憶は、現在、短期記憶と長期記憶と呼ばれるものだ。たとえば、初めて聞いた電話番号を復唱しながら、少しのあいだ覚えておくのは短期記憶。他方、自分の名前や思い出などは長期記憶である。一般には、情報はまず短期記憶として保持されるが、繰り返し復唱されれば長期記憶に移行すると考えられている。

■人間が思い出せる出来事の数

さて、この短期記憶、長期記憶のメカニズムについて提唱したのも、『脳の本質』第4章で登場したヘブ(註:カナダの心理学者ドナルド・ヘブ)である。彼は、短期記憶が、今まさに対象を知覚し認知しているニューロン群(細胞集成体)の一時的な活性化であると想定した。

わかりやすくいえば、電気信号がニューロン群をつなぐ回路をぐるぐると回っているイメージだ。そうしているあいだに、ヘブ則によって、ニューロンをつなぐシナプス結合は徐々に強められる。それが長期記憶への移行である。1949年に発表されたこの仮説が、今なお記憶の基盤として支持されていることに目を見張るばかりだ。

一方で、過去に経験した出来事の記憶の数について調べたのは、心理学者グスタフ・スピラーだ。彼は、自分が思い出した出来事をその都度書き出していった。この気の遠くなるような作業を続けること35年、人間にはおよそ1万の記憶があると結論づけた。1902年のことである。

彼は、出来事のさらに細かな要素を数えていたが、最近の研究では、まとまりのある一つの出来事を1単位として数える。それでもなお、思い出せる出来事の数は生涯で数千にも及ぶとされている。

■脳には些細な記憶も残っている

1933年、今度はペンフィールドが驚くべき発見をした。癲癇(てんかん)患者の側頭葉を電気刺激していたときのことだった。患者が突如、過去に見聞きしたことを再体験するのを目の当たりにしたのだ。ペンフィールドは当時の驚きをこう回顧する。

【図表1】右大脳の内側面と側頭葉の裏にある海馬
『脳の本質』(中公新書)より

意識のある患者の口から、こうしたフラッシュバック現象を初めて告げられたとき、私は自分の耳が信じられなかった。その後も、同じような例にぶつかるごとに、私は驚異の念に打たれた。

〔中略〕ある若い男の患者は、自分は小さな町で野球の試合を見物しながら、小さな男の子が塀の下から観客席へ這い込もうとしているのを見守っている、と告げた。

別の患者は、公会堂で音楽に耳を傾けていた。「管弦楽です」と彼女は説明し、いろいろな楽器を聞き分けることができた。このように、ささいな出来事が細部に至るまで完全に思い出されるのだ。(『脳と心の正体』60頁)

実は、すでに私たちが忘れてしまった(と思い込んでいる)ささいなものでさえ、脳にはちゃんと存在しているのである。

さて、先のヘブのもとで学んでいたのは、博士課程の学生ブレンダ・ミルナーだ。彼女の研究は、のちの記憶研究に大きな影響を与えることとなる。

■海馬を切除した患者に起きたこと

1950年、ヘブの計らいにより、ミルナーはペンフィールドが所長を務めたモントリオール神経学研究所で研究する機会に恵まれる。当時、この研究所では、癲癇を治療すべく多くの脳手術が行われていた。

ところが手術を受けた患者の一人に、ある特徴的な経過が見られたため、執刀した神経外科医ウィリアム・スコヴィルとミルナーは、この経過を症例報告にまとめ発表した。それが1957年の有名な論文「両側海馬損傷後の最近の記憶の喪失」だった。中身をかいつまんで紹介しよう。

患者の名はヘンリー・グスタフ・モレゾン。ただし、生前はプライバシー保護の観点から、ずっとHMというイニシャルで書かれていたから、記憶について学んだことがある人にはイニシャルのほうがなじみ深いかもしれない。

彼は、10歳の頃から体の部分的な痙攣(けいれん)を繰り返していた。不幸なことに、16歳のときに全身の痙攣に移行。この大発作は難治性だったようで、大量の抗痙攣薬を投与しても、年々、発作の頻度と重症度は増すばかりだった。ついにモレゾンは仕事もままならなくなり、本人と家族の了解のもと、27歳で手術を受けることを決意する。

■トイレの行き方すらわからなくなった

スコヴィルは、モレゾンの癲癇の発生源を突き止め、その部分の切除手術を行った。原因の部位は、両側の海馬だったのだ。

手術は成功し、彼の性格は変わらず、知能の低下も認められなかった。ところが、「行動面では、一つ驚くべき、まったく予想外の結果が出た」(前掲論文)という。

手術後、彼は新たに経験したことが記憶できなくなってしまった。そればかりか、過去10年ほどの記憶も消えてしまった(正確にいえば思い出せないのだ)。

手術後、彼は病院スタッフを認識できなくなり、トイレへの行き方すらわからなくなった。また、大好きだった叔父が入院し、3年前に亡くなってしまったことすら覚えていなかった。記憶できないことが、日常生活にどれほどの困難をもたらすのか、私たちには想像だにできない。それでもモレゾンは2008年に亡くなるまで根気強く記憶の検査に協力した。

■最近の出来事も過去の記憶も思い出せない

さて、この研究によってミルナーは博士号を取得し、その後、マギル大学の神経内科および脳神経外科の教授になった。以降、彼女は記憶のメカニズムに関して多大な貢献をし、神経心理学の創始者と呼ばれた。100歳になってもなお、記憶に関する研究者のアドバイザーを務めていた。

科学とは、メモを取り、実験を行い、仮説を変更し、実験計画の欠陥やデータのノイズを発見するのに長い時間が必要なのです。また多くの情報を集めなければならないし、多くの統計が必要で、少なくとも統計学の助けが必要だとわかるくらいには統計学を理解していなければならないのです。(「科学界の偉人、ブレンダ・ミルナー博士」より)

続けて、モレゾンの記憶障害を見ていこう。彼は6〜7桁の数字であれば復唱できた。しかし、長期記憶、つまり出来事などが記憶に残らないという、重度の前向性健忘がみられた。また、過去11年間で経験した出来事も思い出せないという、逆行性健忘もみられた。

のちに、磁気共鳴画像法(MRI)が使えるようになったことから、彼の切除部位を細かく調べたところ、海馬だけでなくその周辺部分も損傷していたことがわかった。

この症例報告をきっかけに、世界中で同様の損傷を負った患者の所見が注目され、海馬周辺、つまり側頭葉の内側の機能について、多くの知見が集約されていくこととなった。

■「海馬=すべての記憶を残している」ではない

まとめよう。

①海馬が損傷されると、新たに体験したことを長期記憶に保持することができない。
②過去11年くらいの出来事を思い出すことはできないが、それ以前の出来事は思い出せる。

ということは、比較的新しい記憶は忘れているが、昔の記憶は覚えているということだ。

海馬は切除されている。つまり、昔の記憶は海馬に存在するわけではない。

乾敏郎、門脇加江子『脳の本質』(中公新書)
乾敏郎、門脇加江子『脳の本質』(中公新書)

私たちが記憶と聞いてまずイメージするのは、過去あった出来事や思い出だろう。小学生だった頃、放課後に日が暮れるまで遊んだこと、夏休みの宿題や給食メニューなど。これは、エピソード記憶といわれる。エピソード記憶では、その時の情景(視覚)とともに、聴覚、触覚、嗅覚なども一緒に思い出されることが多い。もしかすると、当時の身体感覚も含まれるかもしれない。

ペンフィールドの実験で想起された記憶は、まさにこうした多感覚からなるものだった。エピソード記憶は数千といわれるように、総情報量は膨大である。これらすべてが海馬に貯蔵されるとは、通常は考えにくい。

つまり、それぞれのエピソード記憶にまつわる視覚、聴覚、感情などの情報が、それらを処理する脳の各エリアに別々に記憶されていると考えるほうが自然だ。そして、記憶された各々の情報が結びつくことで、ひとまとまりのエピソードとして想起されるのだろう。

モレゾンの記憶障害には後日談がある。2005年にあらためてモレゾンともう一人海馬を損傷した患者の記憶について調査がなされた。これにより意外にも、過去11年間とされていた記憶障害の期間が、実はすべての年代にまたがることが判明したのだ。

■記憶には感覚がのっている

1995年、ハーバード大学のスティーヴン・コスリンは、ポジトロン断層撮影法(PET)を用いて興味深い実験を行った。参加者に絵を見せたあと、目を閉じて正確に思い出してもらった。

驚くことに、記憶を再生するとき、参加者の一次視覚野が活動したのだという。一次視覚野は網膜から入った情報を処理することで視知覚を作る。参加者は目を閉じていたため、網膜からの情報は皆無だった。にもかかわらず、イメージを思い浮かべると、一次視覚野は活性化したのだ(図表2)。

【図表2】視覚と想起
『脳の本質』(中公新書)より

この実験によって、一次視覚野は視覚処理を担いつつ、脳内イメージの再生にも使われることが明らかとなった。これは非常に重要な知見だ。

面白いことに、イメージの大きさによって、活性化される一次視覚野の広さも異なることもわかっている。小さいイメージを思い浮かべれば、活性化する部分は狭く(視野の中心部分を処理する部位が活性化する)、大きいイメージを思い浮かべれば、活性化する部分も広くなる(視野の周辺部分を処理するところまで活動する)。

まさに、イメージを作ることは、外界を見ることの再現といえよう。古くから知られていたことだが、私たちがイメージを想起している最中、たとえば昔の情景を思い出しているときは、目の前の物は見えておらず、心の目に意識が向いているのである。

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乾 敏郎(いぬい・としお)
京都大学名誉教授
大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了。京都大学文学博士。京都大学大学院文学研究科教授、情報学研究科教授を経て、現職。日本認知科学会フェロー、日本神経心理学会名誉会員、日本認知心理学会名誉会員、日本高次脳機能学会特別会員。専門は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学、発達神経科学。

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門脇 加江子(かどわき・かえこ)
スクールカウンセラー
立命館大学文学部で実験心理学を学び、追手門学院大学大学院心理学研究科で臨床心理学を修める。臨床心理士、公認心理師、保健師、看護師。脳と身体の関係を焦点に、児童や成人のカウンセリングに従事。専門は臨床発達心理学、メンタルヘルス。

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(京都大学名誉教授 乾 敏郎、スクールカウンセラー 門脇 加江子)

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