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引退した野球選手の必須スキルは「学歴」でも「資格」でもない…甲子園連覇の「大阪桐蔭主将」が選んだ"意外な道"

プレジデントオンライン / 2025年1月5日 11時15分

水本弦さん - 本人提供

野球選手は引退後、どんな仕事をしているのか。大阪桐蔭主将として甲子園春夏連覇を達成し、亜細亜大でも日本一に輝いた水本弦さんは、東邦ガスで野球を5年続けた後に退職した。引退後はそのまま安定企業に残ることもできたのに、なぜそうしなかったのか。スポーツライターの内田勝治さんが聞いた――。

■「3期目は年商1億円はいきたい」

高校、大学で日本一を経験するなど、誰もがうらやむ球歴を辿ってきた。野球を武器に、有名企業へ入社することもできた。ただ、安定した道を捨て、独立の決断を下したことに後悔はない。

2021年。水本弦(げん)さんは、東邦ガス(愛知県名古屋市)で社会人野球を引退した。2022年から社業に専念し、2023年5月に退社。その後、愛知県名古屋市で設立した「Ring Match(リングマッチ)」は、今期で2期目に突入し、売り上げも順調に伸びている。

「今は小学1年生から中学3年生までを対象とした野球塾をやりながら、僕がプロデュースする練習用バットの開発、販売、あとは野球経験者に特化した人材紹介を行っています。月の売り上げは野球塾と人材紹介、バットの販売を入れて数百万円です。3期目はマストで年商1億円はいきたいですね」

石川県出身。5歳年上の兄の影響もあり、小2から野球を始めた。

「兄が所属している少年野球の応援に家族で行っていて、僕自身もそのグラウンドによく行っていました。父も野球をやっていたので、僕も自然と野球を始める流れになったかなと思います」

■珍しい“両投げ”が思わぬ進路をたぐり寄せた

物心ついた時から左投げだった。ただ、野球のダイヤモンドは左回りで、一塁に投げる機会が多いスポーツ。上のレベルになればなるほど、左投げのポジションは投手、一塁手、外野手に限られる。遊撃手を重要視する父・太さんの勧めもあり、小3から右投げにも挑戦した。

「最初は右で投げることにすごく違和感がありました。指導者や他のコーチには反対されていて、3年生の頃は全体練習に入れてもらえず、僕だけずっと壁当てをやって練習が終わる時もありました。5年生ぐらいになると、試合にも出られるレベルになって、左でピッチャー、右でショートをやっていました」

投手、遊撃手という要のポジションで両投げをこなすのは、小学レベルといえども簡単なことではない。水本さんの旺盛なチャレンジ精神は、この頃から土台が築かれていった。

中学は硬式野球の白山能美ボーイズに1期生として所属。そこでも両投げを継続していたことが、思わぬ進路をたぐり寄せた。

■大阪桐蔭で藤浪晋太郎と一緒に投球練習

3年夏、大阪で行われた全国大会で、沖縄県のチームを相手に完全試合を達成。遊撃手で出場した次戦は4打数4安打と打ちまくり、大阪桐蔭の西谷浩一監督から直々に声をかけられた。

「西谷先生には最初ピッチャーで声をかけていただきました。僕自身、寮に入って野球をやりたかったので、大阪桐蔭を選びました」

大阪桐蔭は、水本さんが中2時の2008年、浅村栄斗(楽天)らを擁し、2度目の全国制覇を達成。多数のプロ野球選手を輩出してきた名門校で腕を磨くべく、石川から大阪へと渡った。

西谷監督からは「両方やろう」と背中を押してもらい、両投げを継続。ブルペンでは同級生の藤浪晋太郎(メッツからFA)や澤田圭佑(ロッテ)と一緒に投球練習を行うなど、貴重な左腕として期待をかけられていた。しかし、入学直後に痛めた左脇腹の影響が長引き、投手を断念することになる。

「球のスピードでいうともっと速い投手はたくさんいましたが、僕はコントロールには自信があったので、それなりにやれるかなとは思っていました。ただ、怪我が治ったのが2年生の時で、その間は右投げで野手をやって、高3から左投げで外野手をやりました」

■主将の経験が会社経営に「一番生きている」

右で投げる時は、左脇腹に痛みは感じなかったという。もし左投げのみだったら、水本さんの野球人生は大きく変わっていたのかもしれない。打撃を買われ、1年秋からベンチ入りを果たすと、2年秋の新チームから主将に就任。一学年下に森友哉(オリックス)が在籍するなど、強烈な個性を放つチームを一つにまとめる役割を担った。

本人提供
豪快なスイングで甲子園を沸かせた大阪桐蔭主将時代の水本さん - 本人提供

「みんな自分が一番うまいと思って入ってきているので、プライドが高い選手が多かったです。難しさはありましたが、そこはあまり縛りすぎないことを特に意識しました」

水本さんは、その後進んだ東都大学リーグの名門・亜細亜大でも主将を務めている。この経験が、会社を経営する上で「一番生きている」と断言する。

「主将は監督と選手の間に入る立場なので、どちらの意見や意図も汲み取って、それを変換して伝えたりしないといけません。双方の感情や、求めていることをうかがえるようになったのかなとは思います。みんなで一つの目標に向かってやるということがすごく好きで、今も本当に楽しくやっています」

■プロで活躍する選手は「ずば抜けているんです」

その「一つの目標」に向かって、大阪桐蔭では3年時に甲子園春夏連覇、亜細亜大でも5度のリーグ優勝に2度の日本一と、これ以上ない形で学生野球を終えることができた。大学入学時までは、将来のプロ入りを目指していたが、1年生で唯一選出された大学日本代表で、吉田正尚(レッドソックス)や中村奨吾(ロッテ)ら、後にプロで活躍するメンバーとの埋めがたい実力差を感じたという。

写真=時事通信フォト
光星学院を破り、春夏連覇を達成した大阪桐蔭ナイン=2012年8月23日、甲子園 - 写真=時事通信フォト

「現実を知れたという感じで、そこで正直プロは諦めました。プロで活躍する選手は、何か一つ秀でたものがあって、それがずば抜けているんです。僕はすべてを満遍なくできるようにと思ってやってきたので、どれも中途半端だと思いました」

 

野球人生で初めて味わった挫折を機に、夢はプロ野球選手から起業家へと傾いていった。

「プロ野球選手は、好きな野球を続けられるということもそうですけど、やはりお金を稼げるというのが一番の魅力だと思っています。プロ野球選手になれなかったらどうしようと考えた時に、それより稼ぐしかないという思考になって、ゆくゆくは起業したいという思いになりました」

本人提供
吉田正尚選手と - 本人提供

■野球と営業の二刀流で大活躍だったが…

それでも、大学日本代表にまで選ばれる逸材を、社会人野球企業が放っておくはずはない。大学卒業後は東邦ガスへと進み、野球をやりながら、お金を稼ぐことのありがたみを学んだ。

「一番の青春でしたね。会社を背負って、お給料をもらいながら野球をやっているので、勝った、負けたに責任が生じるなと感じていました」

本人提供
東邦ガス時代 - 本人提供

基本的な勤務体系は、午前に仕事をこなし、午後から練習。試合が近くなれば、出社はせずに朝から練習をする。その代わり、オフシーズンは朝から働いた。当時はガスと電力が自由化になるタイミングで、営業部だった水本さんは、電力の販売をメインに外回りをし、ノルマに対して300%ほどの売り上げを達成したこともあるという。

「いきなりピンポンを押してという感じの飛び込み営業でしたね。営業成績は野球部でもトップのほうだったと思います」

ただ、営業成績がよくても、出来高等で給与に反映されることはなく、年収は初年度の350万円から、退社前の7年目で600万円ほど。アマチュア野球最高峰の大会である都市対抗に出場すれば、冬のボーナスでは加算ポイントが入って支給されたが、そこまで大きい額ではなかった。

水本さんは野球部に5年在籍。右膝靱帯損傷の怪我から完全復活し、これから活躍が期待される時に、自ら引退を申し出た。2021年、26歳の冬だった。

■「1年間やることができたので、もう満足」

「普通はシーズン後に監督から呼ばれて引退を告げられます。でも、僕の場合は膝を1年間怪我して、その後復帰して1年間やることができたので、もう満足ということもあり、2021年の都市対抗が終わったタイミングで、自分から辞めますと言いにいきました。選手兼任コーチで残ってくれないかというお話もいただいたのですが、僕自身、起業したいという夢があったので、野球はここでキッパリ辞めようと思いました」

引退後、いったんは東邦ガスに残り、社業を学ぶ道を選んだ。部署は営業部から、ガス管工事の設計、見積もりを手配したり、施工を管理したりする設備部に異動となった。

「専門用語が飛び交ったり、圧力計算とか色々あったりして、すぐに覚えるのはすごく大変でした。研修期間もほとんどなく、先輩社員に帯同しながら勉強していく感じでした」

営業では一定の成果を出すことができた自分が、土木や理系の知識が問われる設備管理では、戦力になれないもどかしさを感じていた。ただ、独立準備として、ボランティアで興した野球塾に人が集まり、経営化することにメドが立ったため、2023年5月に退職後すぐに起業した。

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野球教室で子供たちに教える様子 - 本人提供

■野球以外に、何がやりたいかわからない

「東邦ガスという安定企業を辞めることを相談すれば、間違いなく止められるだろうなと思っていたので、親も含め誰にも言っていません。親はあきれていましたけど、1回やってみないと気が済まないタイプなので、そこは思い切りました」

代表を務める「Ring Match」では、野球塾の他に、野球経験者に特化したキャリア支援サービスを行っている。そこには、それぞれにふさわしい「リング(土俵)」で、人材と企業をマッチングさせたいという思いが込められている。

「僕もそうでしたが、野球を辞めた後のキャリアに困っている人が多いんです。野球しか経験していないので、自分が何をやりたいのかわからず、野球以外の人脈や接点も少なく、選択肢が非常に少ないです」

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営業研修の様子 - 本人提供

「社会人野球は、野球がやりたくてその会社を選んでいる場合がほとんどです。そういった方が、野球を辞めた時、ずっとこの会社でいいのだろうかというのは絶対にあると思います。私も営業部から設備部に行き、適材適所があるなということをすごい感じました。野球をやっている人の良さというのは僕が一番知っていると思うので、そこを活かせられたらと思っています」

■藤浪や森の活躍は「正直羨ましい」が…

将来的には、企業が求める人材を育成するビジネススクールの設立も視野に入れている。もう、東邦ガスを辞めたことに「もったいない」と口を出す人はいなくなった。

「正直、社会人野球を5年はやり過ぎたかなと感じています。今、求職者の方と面談をしたりするのですが、若ければ若いほど価値があります。社会人野球をやらずにそのまま就職してもよかったかなと思っています。野球や、スポーツ以外の分野の方とたくさん会って人脈を作り、いろいろな話を聞くことが、ネクストキャリアにおいて本当に重要です」

もちろん、野球があったからこそ、ここまで走ってくることができた。藤浪や森がプロで活躍する姿には「正直羨ましいです」と本音を隠さない。ただ、野球を終えた後の人生のほうが、はるかに長いことも事実だ。水本さんの生き様は、ネクストキャリアを考える野球人に勇気を与えてくれる。

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内田 勝治(うちだ・かつはる)
スポーツライター
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社ではプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツビジネス全般を行う。

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(スポーツライター 内田 勝治)

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