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大河ドラマ「べらぼう」でも踏み込んだ…天才・平賀源内は本当に「男ひとすじで歌舞伎役者が恋人」だったのか

プレジデントオンライン / 2025年1月12日 17時15分

中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年(写真=早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)に蔦屋重三郎(横浜流星)が出した吉原遊郭のガイドブックの執筆者として出てくる平賀源内。作家の濱田浩一郎さんは「源内の生涯をたどると、才能と幸運に恵まれながらも、思うように生きられなかったという挫折も感じる」という――。

■静電気発生機エレキテルを「発明」したと言われる平賀源内

2025年の大河ドラマは、江戸時代中後期に活躍した出版業者・蔦屋重三郎(以下、蔦重と略記することあり)の生涯を描いた「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」です。ドラマにおいて横浜流星さん演じる蔦重と交流を深めるのが、平賀源内(演・安田顕)。源内と言えば、エレキテル(静電気発生機)を「発明」した人として聞いたことがある読者が多いでしょう。しかしその生涯について詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。源内の知られざる生涯と蔦重との関係を見ていきましょう。

まず、源内が生まれたのは、享保13年(1728)のこと。生国は讃岐国(香川県)寒川郡志度浦でした。父は白石茂左衛門。高松藩の蔵番という足軽相当(もしくはそれ以下)の身分の低い家柄でした。源内は白石姓ですが、祖先が武田信玄に滅ぼされた信濃国の武将・平賀源心ということもあり、源内の代に平賀姓に戻しています。ちなみに源内というのは実名ではなく通称で、諱(実名)は国倫(くにとも)と言いました。

彼は画家・戯作者・浄瑠璃作者などさまざまな顔を持っていますが、それぞれ鳩渓・風来山人・福内鬼外などと号しています。号(雅号)を見ただけでも源内の多芸が分かろうというものです。しかし源内が本当に興味を持ち、なりたかったものは、本草学(者)だったと思われます。本草学とは簡単に言えば、植物を中心とする薬物学のことです。源内は年少の頃にこの本草学や儒学、俳諧を学んだとのこと。

■25歳で長崎遊学ができたのは、医師がパトロンだったから?

父の死後、源内も蔵番となりますが、転機となったのが長崎遊学(1752〜53)でした。25歳の時のこの遊学がなければ、源内は「地方の一名士」として生涯を終えただろうという学者もいるほどです。低い身分であり、蔵番という仕事もある源内がなぜ1年も長崎遊学できたのかについては謎とされています。

本草学・物産学を好む高松藩主・松平頼恭の「内命」があったとする説、高松の医師で本草愛好家の久保桑閑がパトロンだったとの説があるのです。源内は家督相続(1749年)前後に藩の薬園に御薬坊主の下役として登用されたとの説があります。これは藩主・頼恭の意向との話もありますので、長崎遊学についても藩主が関わっていたとしても不自然ではありません。本草学に熱中している将来有為の人物として、頼恭は源内に目をかけていたのでしょう。

■28歳で高松藩の蔵番を辞め、江戸へ出て勝負する

源内が長崎で何をしたのかは残念ながら史料不足で不明ですが、中国や朝鮮から渡来した薬草・薬物そしてオランダの珍物などを、感激を持って見たと推測されます。長崎から帰った源内は、驚くべき行動に出ます。宝暦4年(1754)7月、「近年病身」を理由にして、藩に蔵番退役願を提出したのです。そればかりか、家督を妹婿に譲ってしまいます。

源内は自由の身となった訳ですが、長崎遊学を経て強まった学問への熱情がそうさせたのでしょう。宝暦5年(1755)、源内は量程器(歩いた距離を測る器具)や磁針器(方角を測る器具。オランダ人製作の同器具を模倣したもの)を製作しています。

源内に長崎遊学に次ぐ転機がやってきます。それは宝暦6年(1756)3月のこと。源内は故郷を離れ、江戸に旅立つことになるのです。郷里を離れる源内は「井の中をはなれ兼(かね)たる蛙(かわず)かな」と一句詠んでいますが、郷里を「井の中」として広く羽ばたきたい気持ちと、そこを離れ難い逡巡の想いを感じることができます。

平賀国倫(源内)編・著『物類品隲』 1巻、1763年
平賀国倫(源内)編・著『物類品隲』 1巻、1763年(出典=国立国会図書館デジタルコレクション)

■当時のインテリの証拠である漢文の知識は足りなかった

江戸に入った源内は、本草家の田村元雄や林家の塾に学びます。林家の塾に学んだのは儒学(漢学)を学ぶことを本旨としたのではなく、漢文で書かれた本草学に関連する古典を読解せんがためでした。源内の「漢文力」はさほどなかったとする見解もありますし「学術は無き人也」(江戸中期の儒学者・柴野栗山)との酷い源内評も存在します。

源内は宝暦7年(1757)、日本最初の薬品会(薬種・物産を展示する会)を発案しました。その後も源内は江戸で何度も物産会を開催しています。こうした企画は源内の得意とするところだったのでしょう。物産会の開催などで新進の本草学者として源内の名が知られるようになると、高松藩は「医術修行」という名目で「三人扶持」を彼に与え召し抱えてしまいます(1759年)。源内はこれを仕官とは考えていませんでしたが、藩は源内を家臣として扱う。

こうした齟齬(そご)により、源内は宝暦11年(1761)、ついに辞職願を出すのです。「浪人」にて藩主のお役に立ちたいと言うのでした。源内は藩主のお気に入りでもあったようですので、そのまま仕官していたらそれなりに藩内で出世していたかもしれません。「物産やら医書やら取乱し」て、さまざまな学問を吸収しようとしていた源内にとって、藩の拘束は鬱陶しいものだったのでしょう。

■話題の人・源内に吉原のガイドブックの序文を書かせた蔦重

源内の辞職願は受理されますが、その代わり他家への奉公は禁止されてしまいます。一説には源内は大藩か幕府に仕官したいとの野心を抱いていたとされますが、その野望は挫かれたのです。その後の源内は鉱山開発の指導を行ったり、文芸活動を行ったりします。戯作・浄瑠璃まで書き散らしたとされますが、それらは生活費を稼ぐためでありました。

さて大河ドラマでは蔦重と源内は親密な交流をするようですが、実際にどれほど交流したか詳しいことは分かっていません。ただ安永3年(1774)、蔦重が編集した吉原細見(吉原のガイドブック)『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』に源内が序文を書いたことは確かです。序文執筆者として源内を起用したのは蔦重だったと言われています。さまざまな分野で話題を集める源内を序文執筆者として起用すれば人の口にのぼり、売れるのではないかと蔦重は踏んだのでしょう。蔦重の企画力が窺えます。

山東京伝作『箱入娘面屋人魚 3巻』中の蔦唐丸(蔦屋重三郎)、1791年
山東京伝作『箱入娘面屋人魚 3巻』中の蔦唐丸(蔦屋重三郎)、1791年、出典=国立国会図書館デジタルコレクション

その序文は、女衒が遊女になる娘を選ぶ基準から始まっています。

「女衒(ぜげん)、女を見るに法あり、一に目、二に鼻すじ、三に口、四にはへぎは(註:髪の生え際)、肌は凝れる脂のごとし、歯は瓢犀(ひさごのさね)のごとし。(中略)
顔と心と風俗と、三拍子揃うもの、中座(ちゅうざ)となり立者と呼ばる。人の中に人なく、女郎の中に女郎まれなり。貴(たっと)きかな得がたきかな。
あるいは骨太(ほねぶと)、毛むくじゃれ、猪首(いくび)、獅子鼻(ししはな)、棚尻(たなっしり)、蟲喰栗(むしくいぐり)のつつくるみも、引け四ツの前後に至れば、余って捨(すた)るは一人もなく、ひろいところが、アア、お江戸なり」
塚本哲三・編『平賀源内集』(有朋堂書店、1922年)※一部を現代がなに変更、読点追加

■エレキテルを発明したわけではなく、修理して動かしただけ

源内が話題を集めたと言えば、その1つにエレキテルが挙げられるでしょう。源内はエレキテルを発明したと辞典類などで書かれることがありますが、そうではありません。長崎で中古のエレキテルを入手し、それを江戸に持ち帰り、修理・復原しただけです(1776年)。

とはいえ、復原に成功しただけでも凄いという声があるのも事実ですが。源内は話題となったエレキテルを高級見せ物にすることにより、謝礼を貰い生活費としました。余興まで加えて見物客の誘致に努めたと言いますから気合いが入っています。

当初は話題を集めたエレキテルですが、当然ですが時が経つにつれて、話題性は無くなり、見物客も集まらなくなります。源内の経済状況は悪化。安永7年(1778)には「功ならず名斗(ばかり)遂(とげ)て年暮ぬ」という源内のため息が聞こえてきそうな一句を詠んでいます。

■門人や友人に刀を向け、殺人未遂で牢屋に入った後に…

その翌年は源内の運命の年となりました。安永8年(1779)11月20日夜、神田の源内宅に、源内の門人・久五郎と、源内の友人・丈右衛門が止宿していました。ところが、明け方に彼らは「口論」となり、源内は抜刀。両人に手傷を負わせるのです。久五郎は傷がもとで亡くなります。源内はこの事件が起こる前から、よく癇癪を起こしていたとされます(源内による殺傷事件の内容については諸説あり)。

犯罪者として牢屋に入った源内はその年の12月18日に獄中で病死。死因は破傷風であったとされます。「天才」とも称される源内ですが、その生涯をつぶさに見ていくと、数々の挫折や判断ミスがあったことが分かります。

■源内は一生独身で、歌舞伎役者との仲は江戸中の話題だった

もし源内が高松藩を去らなければ、経済的困窮に陥ることもなかったでしょう。源内は自由を追い求めた結果、不自由になっていったと言うこともできるでしょうか。

また、源内は一生、独身でした。「女ぎらい」で若衆(歌舞伎役者で、舞台に出るかたわら男色を売った者)好きだったとされます。吉原のことはよく分からないが、若衆が体を売る町には詳しかったとの見解もあります。

鳥居清満筆「二代目瀬川菊之丞の勘平女ぼうお軽」、18世紀(東京国立博物館蔵)
鳥居清満筆「二代目瀬川菊之丞の勘平女ぼうお軽」、18世紀(東京国立博物館蔵)出典=国立博物館所蔵品統合検索システム

女形の人気歌舞伎役者、二代目・瀬川菊之丞と恋仲であることは、江戸市中でも有名でした。『根南志具佐(ねなしぐさ)』という男同士の恋愛を描いた戯作も出版し、その中にも菊之丞が出てきます。

「この坊主は、(中略)、堺町の若女形、瀬川菊之丞といへる若衆の色に染められて、(中略)若衆の恋のしすごしに、尻のつまらぬ尻がわれて、座敷牢に押し込められ、したうかいなく己が身を、宇津の山部の現(うつつ)にも、逢はれぬ事を苦に病んで、むなしくあの世を去りけるが、だんまつまの苦にも忘れ得ぬは、路考(註:菊之丞の別名)がおもかげとなりとて、ここまでも身をはなさず、アア腰に付けたるは、鳥居清信がえがきたる菊之丞が絵姿なり」
塚本哲三・編『平賀源内集』(有朋堂書店、1922年)※一部を現代がなに変更

参考・引用文献
・城福勇『平賀源内』(吉川弘文館、1971)
・芳賀徹『平賀源内』(筑摩書房、2023)
・塚本哲三・編『平賀源内集』(有朋堂書店、1922)、国立国会図書館デジタルコレクション

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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