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「南海トラフ地震」の恐ろしさは地震と津波だけではない…江戸の住民を戦慄させた巨大地震後の予想外の災難

プレジデントオンライン / 2025年1月15日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

1月13日、午後9時19分ごろ日向灘を震源とする最大震度5弱の地震が発生した。同日、気象庁は南海トラフ地震の発生可能性は高まっていないと発表した。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸時代には2度、南海トラフ地震が発生している。いずれ起きる災害に備えるために、その被害を知ることは有益だろう」という――。

■南海トラフ地震の30年以内の発生確率は70~80%

1月13日月曜日。この日からはじまったフジテレビの月9ドラマ「119エマージェンシーコール」を観ていたら、地震発生の「緊急速報」が入った。21時19分ごろ、宮崎県の日向灘を震源とする最大震度5弱の地震が発生したという。その後、もう一度「緊急速報」が入ると、番組自体が中断してしまった。

切り替わった画面では地震と津波の情報が伝えられ、気象庁が南海トラフ地震との関連を調べるとのことだった。南海トラフ沖では、今後30年以内にマグニチュード8~9の巨大地震が発生する可能性が70~80%におよぶとされており、それとの関連を指摘されればさすがに不安になる。

月9ドラマはしばらくして再開したそうだが、私は不安に駆られたゆえに、再開すると思わずに見逃してしまった。それはともかく、気象庁は23時45分に「巨大地震発生の可能性は平時と変わらない」と発表し、今回の地震と南海トラフ地震との関連についての調査を終了した。

したがってホッと一息ではあるが、比較的残されている江戸時代の南海トラフ地震の記録は途轍もない内容で、知るほどに緊張を強いられる。こうした機会に、それを確認して近い将来への備えにするのは悪いことではなかろう。

■浜松周辺では民家が全滅した

「安政」という元号からは、安政5年(1858)に大老の井伊直弼が尊王攘夷運動を弾圧した「安政の大獄」を連想する人が多いと思う。だが、「安政」という元号を冠したできごとにはもうひとつ、より広範囲に甚大なダメージをあたえたものがあった。地震である。

正確には元号は安政ではなかった。嘉永7年(1854)11月4日の午前9時から10時ごろ、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とする、マグニチュード8.4と推定される巨大地震が発生した。「安政東海地震」である。嘉永時代の地震になぜ「安政」という元号を冠しているのか。その理由は追って説明するが、ともかく、この地震は南海トラフ巨大地震のひとつだとされている。

その語自体は、いまやだれでも知っている南海トラフ。それは四国の南方の海底に存在する、水深4000メートル級の深い溝(トラフ)のことで、その北端部は駿河湾内まで延び、その部分は駿河トラフとも呼ばれる。「安政東海地震」では、このトラフの東半分から駿河トラフにかけて震源域となった。

とりわけ遠州灘沿岸の被害が甚大で、沼津(静岡県沼津市)や天竜川の河口地域(静岡県磐田市や浜松市)では、全滅した町も多数あったという。また、清水(静岡市清水区)から御前崎(静岡県御前崎市)にかけては地盤が1~2メートル隆起し、清水港をはじめ多くの港が使用不能になった。

伊豆半島南端の下田(静岡県下田市)も推定6~7メートルの津波に襲われ、948戸中927戸が流出して、122人が溺死。ロシアの極東艦隊司令官プチャーチンが乗るディアナ号も津波に遭遇して大破している。

また、震源から離れた内陸も、たとえば甲府(山梨県甲府市)では7割の家屋が倒壊。松本(長野県松本市)や江戸でも一部の家屋が倒壊するなど、被害はかなり広範囲におよんでいる。

安政の大地震絵図を描いた当時の瓦版。江戸のほか全国各地で火災による被害が発生した。
安政の大地震絵図を描いた当時の瓦版。江戸のほか全国各地で火災による被害が発生した。(写真=東京都立図書館デジタルアーカイブより。A news broadsheet “Kawaraban”, 1855/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■32時間後にふたたびM8

だが、地震はこれだけでは済まなかった。わずか32時間後に、やはりマグニチュード8.4と推定される「安政南海地震」が発生したのだ。震源域は紀伊水道から四国沖だった。今度は南海トラフの西半分が震源域となったのである。

立て続けに地震が発生したため、この年の11月27日、元号が嘉永から安政に改められた。だが、改元前も年表上では安政元年に該当するので、東海地震も南海地震も「安政」と冠されているというわけだ。

なかでも被害が大きかったのは、震源に面している土佐(高知県)で、5~8メートルの津波に襲われ、倒壊家屋3000戸余り、焼失家屋2500戸余り、津波による流出家屋3200戸余り、死者372人とされる。現在の高知市内は地盤が1メートルほど沈下して浸水。ほかの地域でも、1メートル前後の沈下や隆起があったといわれる。

高知県南西部にある土佐入野加茂神社にたつ安政津波碑。
高知県南西部にある土佐入野加茂神社にたつ安政津波碑。(写真=As6022014/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

また、紀伊半島の津波は7メートルに達したとされる。大坂湾北部にも推定2.5メートルの津波が押し寄せ、多くの橋が流され、8000隻ほどの船舶が破損したとされる。当時、縦横に水路がめぐらされ、水の都と呼ばれた大坂では、川船で避難しようとした人が被害に遭ったようだ。そもそも近畿地方は、東海地震の被害と南海地震の被害をダブルで受けた。

これら2つの地震による全国の被害は、全壊家屋2万戸余り、半壊家屋4万戸余り、焼失家屋2500戸余り、流出家屋1万5000戸余りにおよび、死者は約3万人と推定されている。

■大地震だけでは終わらなかった

しかも、怖いのはその後、この「南海トラフ地震」が引き金になったのか、たしかなことはいえないが、全国で地震が続いたことである。

これらの地震が発生する5カ月近く前には、三重県伊賀市北部を震源とする「伊賀上野地震」が発生していた。これは内陸直下型地震とみられ、マグニチュードは推定7.2~7.3。奈良や大坂でも被害が記録され、1500人以上の死者が出たと考えられている。

そして安政南海地震の40時間後の11月7日には、豊後(大分県)と伊予(愛媛県)のあいだの豊予海峡を震源として、マグニチュード7.4と推定される「豊予海峡地震」が発生した。豊後での揺れは南海地震よりも大きかったとされる。

翌安政2年(1855)は、2月1日に飛騨(岐阜県北部)の白川郷(白川村)を震源とする、推定マグニチュード6.8の「飛騨地震」が発生。その後、同年11月7日に起きた安政東海地震の最大の余震を経て、11月11日にマグニチュード7クラスの「安政江戸地震」が発生した。江戸では町屋はもちろん、大名屋敷や武家屋敷も多くが倒壊し、幕府による公式調査だけでも、倒壊家屋は1万4000戸を超えた。死者は1万人前後と推定されている。

■記録で確認できる日本最大級の地震とは

この安政の大地震を百四十数年さかのぼる宝永4年(1707)10月4日、やはり東海道沖から南海道沖の南海トラフ沿いを震源域とする「宝永地震」が発生していた。マグニチュード8.6と推定されるこの地震では、南海トラフの全域が同時に揺れた。しかも全域にわたってプレート間の断層破壊が発生し、江戸時代をとおして最悪の被害をもたらした。記録で確認できる日本最大級の地震でもあった。

この地震による被害状況は、幕府の記録が火災等でみな焼失しているため、不明な点も多いのだが、尾張藩士が幕府の報告書を写した記録によれば、最大の被害に見舞われた大坂では、地震6日後の時点で3537の家屋が倒壊、5351人が圧死し、1万6371人が津波で溺死したと記されている。

宝永地震の震度
宝永地震の震度(写真=As6022014/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

また、全壊家屋は5万戸以上で、流出家屋が2万戸前後、壊れた堤防は全長800キロにおよび、被害を受けた田畑は30万石前後だったとされる。津波の規模も大きく、土佐では標高18メートル、内陸数キロまで達した地点もあり、沿岸部の集落は軒並み壊滅したとされる。まさに東日本大震災並みの津波が襲っていたのである。

大坂の被害が大きかったのは、この大都市を津波が襲い、街中の運河を水がさかのぼったからである。また、津波は紀伊半島で十数メートル、下田で7メートルなど、広範囲にわたって襲ったようだ。

■巨大地震が引き起こした富士山噴火

しかも、宝永地震から49日がすぎた11月23日、今度は富士山が五合目付近から大噴火した。むろん、宝永地震との関連性を指摘する声は大きく、実際、地震直後から富士山で怪しい鳴動や小地震が感じられるようになっていた。

この噴火は16日間続き、噴煙は1万メートルの高さにおよび、富士東麓の村々が火山灰や火山礫、噴石などで埋まったのはもちろん、火山灰は江戸にも数センチ積もった。江戸の町が日中でも真っ暗になったと伝えられている。

大噴火により富士山には側火山である宝永山が出現。噴火による影響は、通信や交通網の遮断、停電など現代の方が影響が大きい。
大噴火により富士山には側火山である宝永山が出現。噴火による影響は、通信や交通網の遮断、停電など現代の方が影響が大きい。(写真=アルプス岳/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

復興のために幕府や藩の財政が悪化の一途をたどったことは言うまでもない。なにしろ宝永地震の4年前の元禄16年(1703)11月23日にも、「元禄地震」が関東を襲い、1万人を超える死者が出ていた。マグニチュード7.9~8.2と推定され、房総半島や三浦半島の大規模な隆起の規模からしても、大正12年(1923)の関東大震災よりはるかに大きな地震だったと考えられるという。

震源は相模トラフ。これらの地震や噴火による混乱を経て、上方の豪商を中心に花開いていた華麗な元禄文化も潰えてしまった。

■江戸時代の災害は、未来の予告

ところで、同時期に大地震が発生したり、富士山が噴火したりした過去があるが、それらは連動しているのかが気になるところだ。たとえば、内閣府防災情報には「宝永地震のような非常に大規模な地震の発生後数カ月間は、誘発される別の地震や噴火、土砂崩れなどの災害にも注意が必要である」と記されている。また、宮地美陽子氏は、南海トラフ地震と首都直下地震や富士山噴火の連動について言及している(『首都防衛』講談社現代新書)。

ところで、上に挙げた江戸時代の被害状況は、現在よりも人口が少なく、密集の度合いも小さかった時代の記録で、現代に同規模の地震が発生したら、被害はこの規模では済まない可能性がある。しかも江戸時代の災害は、未来の予告でもある。南海トラフ地震にも周期があり、私たち日本人の平和は前の災害と次の災害のあいだの、かりそめのものだともいえる。だが、過去の災害を知れば、ふたたび襲う災害に備える心構えもできる。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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