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シカゴが語るブラス・ロックの真髄、ジミヘンやマイルスとの交流、日本への特別な想い

Rolling Stone Japan / 2024年9月2日 17時40分

シカゴ

9月21日(土)・22日(日)に開催されるBlue Note JAZZ FESTIVAL、2日目のヘッドライナーはブラス・ロックの代名詞的バンド、シカゴが務める(9月24日にはグランキューブ大阪で単独公演)。プロデューサーのジェイムス・ウィリアム・ゲルシオとタッグを組んで1969年にシカゴ・トランジット・オーソリティとしてデビューした当初の彼らはホーンセクションを含む編成を存分に活かし、ジャズやクラシック、現代音楽の要素までミックスした斬新なサウンドと、社会的なテーマを見据えたシリアスな歌詞で注目された。

2ndアルバム『Chicago(シカゴと23の誓い)』からグループ名をシカゴに短縮、同作からシングルカットされた「Make Me Smile」「25 Or 6 To 4」がヒットチャートでトップ10入りしたのを皮切りに、「Saturday In The Park」「Just You 'N' Me」などヒット曲を連発。アルバム・アーティストとしての地位を確立する一方、シングルもポップマーケットで支持され、70年代前半のアメリカで最も成功したバンドの一つとなった。ラテン音楽やR&Bへの接近など変化を重ね続けた彼らは、ソフト路線のバラード「If You Leave Me Now」で初の全米シングル・チャートNo.1を獲得する。



しかしギタリストのテリー・キャスが1978年に事故死してからは、セールスが徐々に下降。しばらく苦しい時期が続いたが、デヴィッド・フォスターにプロデュースを委ねてサウンドを刷新した1982年の『Chicago 16』から「Hard To Say I'm Sorry」が全米No.1ヒットになったのを機に、新たな黄金期が幕を開けた。バラードを得意とするボーカル兼ベーシスト、ピーター・セテラの脱退という危機も乗り越えた彼らは、その後も幾度かのメンバーチェンジを経て、息の長い活動を続けている。

今回取材に応じてくれたのは、結成時からのメンバーでソングライティングとアレンジにおいて重要な役割を果たしてきたトロンボーン奏者、ジェイムズ・パンコウ。ジャズフェスに出演するタイミングで、彼の原点にあるジャズ体験や、レーベルメイトだったマイルス・デイヴィスとの想い出、そして同日に出演するスナーキー・パピーについても訊いてみた。





ジャズの原体験、ホーンセクション誕生秘話

─あなたはトロンボーンを吹き始めた頃、ジャズのトロンボーン奏者から多くを学んだと聞きました。特によく聴いて研究した曲や、影響されたプレイヤーを教えてもらえますか?

ジェイムズ:大勢いたが、演奏し始めてまず影響を受けたのはJ.J.ジョンソンだ。彼が初めてトロンボーンをクールな楽器にしたプレイヤーだったと思う。当然、それ以前にも素晴らしいトロンボーン奏者はいたわけだが、J.J.のスタイルが僕には一番訴えてきたし、心を掴まれた。彼が吹くと、トロンボーンはとびきりカッコ良くて、すごい音を出す楽器になった。10歳か11歳の時、父親がJ.J.ジョンソンのレコードを持って仕事から帰ってきたんだ。その父は12年間ピアノを弾いていたんだが、当時は同世代の音楽を弾いたり、他と違うことをするのはあまり正しいと思われていなくて。結局は堅苦しいクラシックを弾くことが楽しめず、プロとしての音楽の道を諦めてしまった。そんな父だったので、僕がトロンボーンを吹き始めたことをとても喜び、ミュージシャンの道に進むかもしれない、という時にも応援してくれた。若い頃の僕にとっては、父がメンターだったんだ。

夕食後、居間で父は毎晩のようにアルバムをかけてくれた。カウント・ベイシー、スタン・ケントン、ウディ・ハーマン、ジェラルド・ウィルソン……そこにある日、J.J.ジョンソンが加わったんだ。僕はまだ楽器を吹き始めたばかりだったから、全然将来プロになるなんていうレベルじゃなかった。ある日、父に「2階に来て、驚かせることがあるから」と言い、J.J.のアルバムをターンテーブルに乗せると、それに合わせて1音も間違わず演奏してみせた。もちろん.J.J.ほどうまかったわけじゃないけど、それがJ.J. ジョンソンだとわかるくらいにはコピーしてたんだ。父は涙を流して喜んでくれた。J.J.ジョンソンのトロンボーンを完コピする息子を見て、「この子は音楽の道に進むかもしれない」と思ったんだろう。そして実際、僕はデポール大学に進み、自分のクインテットを結成し、シカゴ中で演奏をした。その頃の僕のスタイルと演奏はJ.J.ジョンソンの影響を大いに受けていたと思う。

他にもアービー・グリーン、カール・フォンタナ、フランク・ロソリーノ……もう少し経ってからはビル・ワトラスなども聴いた。僕のスタイルはそういった多くの素晴らしいトロンボーン奏者たちから受けた影響が混じり合った結果だと思う。それは演奏に限らず、作曲やアレンジに関してもだ。トロンボーンは単音楽器なので、作曲をするには表現が限られてしまう。それで第二専攻楽器としてピアノを選び、ポリフォニーやコード構造、曲の構成を学んだ。それによって、頭の中で聞こえていたリズムセクション、リード・ヴォイス、ボーカル、歌詞、コードアレンジを全て表現できるようになったんだ。ポリフォニックな楽器であるピアノの特性のおかげでね。コンポーザー、アレンジャーとしての側面が増すにつれ、それは僕の演奏自体にも影響を及ぼした。それまでとは違う方向にトランペットで向かうインスピレーションになったのさ。

楽器を演奏することに関して一つ言えるのは、「これで全てがわかった。完全に楽器をマスターした」と言える日は永遠に訪れないんじゃないかということ。それが向上の鍵だ。常に成長の余白は残っているし、その楽器に費やした時間と同じ分しか、技術は習得できないんだと思う。やればやっただけうまくなるし、良い音楽を聴けば聴いた分、インスピレーションを得られる。音楽は無限に広がるダイナミックなものだ。ライブですごい良い演奏ができて、自宅に帰っても練習し「準備万端。全てやれることはやっている!」という気分になることがある。でもそのすぐ後に、ものすごいアーティストの演奏を耳にして「なんだこれは?! どうやってこんなことをしてるんだ?! まだまだ僕には学ぶことがある。先は長い……」と、一気に自分の身のほどを知るのさ。自分は全部わかったつもりでいても、それ以上のことをやってる人たちが世間には大勢いるわけだから。


ジェイムズ・パンコウ、2021年撮影(Photo by Jason Kempin/Getty Images)

─初期のシカゴはロックとクラシック、ジャズ、ブルース、ソウルなど、あらゆるジャンルをミックスしていましたよね。それらの要素を混ぜ合わせていくのは、主に誰が中心になってやっていたんでしょう。

ジェイムズ:バンドの中心メンバーは、僕と同じデポール大学で音楽を学ぶ学生だった。ホーンセクションがリード・ヴォイスのロックンロール・グループを作ろうという考えのもとに僕らは集まった。単にバックに徹する、お飾りのようなホーンセクションではなく、メロディアスなアプローチを持つサウンドにしたかった。そしてどういうわけか、それがなんであるかを見つける役を僕が任されたんだ。強力なリズムセクションと3人のホーン奏者が単なる伴奏としてではなく、メロディを奏でて、主役となる音楽。ブラスの要素が不可欠の音楽にするにはどうすべきかを考えた。リズムセクションを録音したデモに合わせてハミング、またはトロンボーンでメロディラインを考えた。ボーカルがメロディを歌う時には、ホーンセクションは一歩下がるが、ボーカルがブレイクをとる時はホーンがリード・ボーカルの役になる。だからシカゴの曲からブラスを取り除いてしまったら、同じ曲だとは思えないと思うよ。



─あなたがアレンジを一手に引き受けていたんですね?

ジェイムズ:ああ、気づいたらそれが僕の役割だと感じるようになっていた。デポールでウォルター・パラゼイダー(sax)とリー・ロックネイン(tp)に会う前から、僕はジャズを演奏していたからね。その後、ウォルターと同じバンドにいたテリー・キャス(g, vo)とダニー・セラフィン(ds)が加わり、シカゴになったんだ。それぞれがやっていることを聴き合いながら、次第に中西部のナイトクラブでの仕事をするようになっていった。最初は、自分たちのサウンドがまだ出来てなかったんで、TOP40をカバーしていた。というか、クラブではそれが求められたんだ。60年代後半のTOP40は、ジェイムズ・ブラウン、サム&デイヴ、フォー・トップス、テンプテーションズ、ライチャス・ブラザーズ、モータウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン……などR&Bやソウル・ミュージックが中心で、ホーンをフィーチャーした曲が多かった。やがてマザーズ・オブ・インヴェンションが登場し、僕らは夢中になった。フランク・ザッパの音楽にはクラシック、ジャズ、ポップスなど全てが入っていたからね。僕自身、アレンジャーとしてもとても影響を受けたよ。

そんなわけで最初はカバー・バンドとして当時、人気があった曲をやっていたが、次第に自分たちのヴォイスを見つけるようになった。最初にオリジナル曲を持ってきたのはロバート・ラム(key, vo)だ。その後、テリー・キャス、そして僕も曲を書くようになり、それらの曲をホーンセクションでどうやって形にするかということを考えた。ベーシックトラックを聴きながら、口ずさんでメロディラインを書く……ボーカルのメロディとホーンがリードのメロディを取り合うようなアレンジだ。だからホーン・アレンジを取り除いてしまったら、シカゴの音楽は成り立たない。もしかすると無意識に職にあぶれないよう、そうしていたのかもしれないね。

─(笑)

ジェイムズ:だってホーンがなかったら、シカゴの曲はスカスカだ。ホーンが欠かせない要素だった。ところがそういうことをやっているバンドは、他にいなかったんだ。ポップ・ミュージックにおけるホーンの立場を確固たるものにしたのは僕たちだよ。それまで金管楽器といったブラス奏者は、ジャズかクラシックを演奏するのが主流だった。ポップスでは本物のホーンの演奏はなかった。僕らがその扉を開き、チャンスを作ったんだ。だから僕は今もこうしているわけで。ポップスとホーンの関係を確立してくれてありがとうと、他のホーン奏者からは感謝されるよ。

ジミヘン、マイルス、TOTOとの交流

─シカゴがジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとツアーを回ったのは有名な話です。一緒にレコーディングする計画もあったそうですが、ジミとの想い出について教えてもらえますか?

ジェイムズ:僕らがウィスキー・ア・ゴーゴーに出てた時、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはフォーラムのライブのためにLAにいて、その晩はオフだったんだ。それで僕らを観にきていた。1968年なんで、まだアルバムも出していない頃だ。ウィスキーはごく初期のシカゴにとってのホームで、毎週月曜と火曜は僕らだけでやらせてもらい、週末はヘッドライナーのためにバックを務めるハウスバンドのような存在だった。その時はブルース・ギタリスト/シンガーのアルバート・キングの前座で、楽屋でまたステージに戻る準備をしてたんだ。すると誰かがドアをノックしたんで開けるとジミ・ヘンドリックスが立っているじゃないか。「え、本物?」と驚いた。するとジミは「君らのギタリストは僕よりも上手い。そしてホーンセクションはまるでone set of lungs(肺二つ=一人の人間)が吹いてるみたいだ」と言ったんだ。そして「俺とツアーに出ないか?」と言ってくれた。「冗談だろ? もちろんさ!」。それでツアーに帯同し、前座を務めた。移動やホテルの部屋でも一緒に過ごし、ジミともミッチ・ミッチェル、ノエル・レディングとも本当に親しくなったよ。彼らは全米のアリーナのヘッドライナーを務め、人気も実力も絶頂だった。僕らは比べものにならず、ナイトクラブや大学で演奏していたに過ぎない。何千人もの客を前に演奏したのは、あの時が初めてだった。アルバムを一緒に作ろうという話もしていたが、残念ながら皆も知っているように、ジミはあまりにも早く逝ってしまった。リハーサルの予定も立てていたし、曲も一緒に書こうと話をしていたので、実現できなかったのは本当に残念だったよ。


シカゴの面々がジミ・ヘンドリックスについて回想したインタビュー動画(2022年公開)

─マイルス・デイヴィスとはレーベルメイトでしたよね。彼と交流する機会はありましたか?

ジェイムズ:マイルスは同じコロムビア・レコード所属だったので、ニューヨークの世界万博跡地で開かれたレーベルのコンベンションに招待された時に、そこで初めて会ったよ。超クールで、他の誰にもないユニークなスタイルそのものの人だった。シカゴの音楽にとってジャズは欠かせない要素だし、僕自身のアレンジにもマイルスをはじめ、ジャズ奏者たちからの影響がたくさん入っている。それと同じように、マイルスはR&Bやポップスのミュージシャンからの影響を取り入れた折衷的なジャズポップを好んでいた。その後、エレクトリックなアプローチをトランペットに取り入れた時期もあったからね。

それからずっと後の話だが、キャリア晩年の頃、マイルスはジェフ・ウォルド(業界の大物マネージャー/プロデューサー)のチームに加わった。ジェフはヘレン・レディのダンナさ。その頃、シカゴもジェフ・ウォルドにマネージメントされていたんで、ジェフの招きで僕はマリブのレストランでマイルスとランチをした。テーブルを挟んでマイルスがいて……しかもそこで持ちかけられたのは、僕がシカゴでやったようなホーン・アレンジを、マイルスのレコードでやってほしいという話だった。マイルスほどのレジェンドにそう言われただけでも光栄で有り難かったが、正直緊張していて。マイルスの頭の中を知るために、具体的に何をすればいいのかと、色々と質問したのを覚えてる。シカゴの活動もすごく忙しい時期だったので、ピアノの前で、もしくはホーンを持ってマイルスのアレンジをする時間を作るだけで大変だった。

何曲かマイルスからデモも送られてきた。「これでどうでしょうか?」「あなたが求めているのはこういうアプローチ?」と何度もやりとりを重ね、そして準備をして、スタジオに入る寸前まで行ったんだが、シカゴの活動があまりにも忙しくなり、何度か予定を延期しているうちに、マイルスの体調が悪くなってしまった。彼は股関節に爆弾を抱えていたからね。奥さんだったシシリー・タイソンとも話したよ。彼女はマイルスの世話を焼き、彼を守り、彼を元気にしようと努力していたんだ。結局、僕らのコラボレーションは、ジミ・ヘンドリックスの時と同様、実現することはなかった。ちょっと遅すぎたんだ。




─あなたはバンドの外でもさまざまなセッションに参加してきましたよね。中でもTOTOのレコーディングに参加したことがよく知られています。どんな風に彼らとやることになって、どうやり遂げたのかを教えてもらえますか?

ジェイムズ:これまで様々なシカゴ以外のプロジェクトに招かれ、アレンジを頼まれたのは、本当に光栄なことだ。『TOTO IV』の時はアレンジはしていない。それでもジェリー(・ヘイ)とTOTOのメンバーたちの希望で僕は「Rosanna」とか何曲かのセッションに呼ばれたんだ。そりゃあ、感激したよ。彼らは業界きってのファーストコール・スタジオミュージシャンたちだ。そんな一流ミュージシャンが集まったのがTOTOだった。彼らからは僕がシカゴで作ったサウンドが昔から好きだったと言われた。そのテイストを自分たちのアルバムに欲しい、とね。それでスタジオに行くと、当時LAのレコーディングをすべて手がけていた強者のミュージシャンが勢揃いしていた。ジェリー・ヘイ、トム・スコット、ゲイリー・グラント……そんな中に自分が招かれたなんて、本当に光栄極まる経験だったよ。それ以外にもいろんなセッションに参加しているが、シカゴ以外のプロジェクトをやるのはいつも楽しいね。自分たちのための曲ばかり書いているんで、たまに他のミュージシャンたちのアレンジをやると、いい気分転換になる。


ジェイムズ・パンコウがブラス・アレンジを手がけ、演奏にも参加した「Dying on My Feet」(2006年)

8年ぶりの来日に向けて

─何度も来てくださっている日本では、1972年に『Live In Japan』という素晴らしいアルバムを録音しましたが、あの時のことについては何が記憶に残っていますか?

ジェイムズ:日本ではたくさんの素晴らしい経験をしたよ。シカゴとしてだけでなく、他のアーティストと一緒のこともあった。『Live In Japan』を作ったのはとてもタイムリーな年だった。それ以前にも来日していたが、日本の観客は音楽が本当に好きな人たちばかりなんで、こちらもやっていて楽しいし、エネルギーと熱気がすごいんだ。シカゴのステージ・パフォーマンスという意味で、日本でのライブの体験をレコードに残さなくては、というか、永遠に残す価値があると思ったんだよ。

※今回の来日公演を記念して、『Live In Japan』がジュエルケース仕様2枚組CDで9月18日に再発売(詳細は記事末尾にて)




─Blue Note Festival で同じ日に出演するスナーキー・パピーについてはご存じですか? 彼らはTOTOとも交流があるし、若い頃のあなたがたと志に似たところがあるグループなのですが。

ジェイムズ:もちろんさ。モンスターみたいな才能溢れるミュージシャン集団だ。確か、ノース・テキサス大学の学生を中心に出来上がっているんだよね?

─ええ、その通りです。

ジェイムズ:何度かメンバーチェンジをしているようだが、全員素晴らしいテクニックと才能を持っている。まだライブで観たことがないので、うまくチャンスがあれば彼らのステージもぜひ観たいと思っているよ。他のラインナップもナイル・ロジャース、日本のトランペット奏者……名前を思い出せないんだが、かなり彼も話題になっていて……。

─黒田卓也ですね?

ジェイムズ:そうだ。彼の演奏も聴きたいと思っているよ。あと、ジョージ・クリントンも出るよね。なかなかバラエティ豊かな素晴らしいラインナップだ。そんなフェスに出演できるのはとても光栄だし、何よりまた日本のオーディエンスの前で演奏できるのが楽しみだ。東京ではBlue Note Festival、大阪は単独公演。たくさんある国の中でも日本は一番好きな国の一つさ。ちゃんと音楽を聴いてくれる観客なんだ。何よりも、音楽を理解している。そういう意味で、かなり洗練されたリスナーだ。だからいつだって繋がりを感じられて、楽しいんだよ。




─最後に、日本のファンも楽しみにしている来日公演の見どころを教えてください。

ジェイムズ:これだけは言えるよ。今のシカゴのラインナップがバンド結成以来、おそらく最高のラインナップだ。今がピークだと信じている。全神経をフル回転させて、エネルギッシュなステージにするつもりだ。僕ら、それが得意なんでね。ボーカルもホーン隊もリズムセクションも、全員が熟練のベテラン・ミュージシャンばかり。シカゴのライブにトリックやごまかしは一切ない。アルバムの曲が1音1音すべて生演奏で再現される。今のこのベストな状態のシカゴで日本に戻れることを、本当に嬉しく思っているよ。

最近のライブでも本当にパワフルな演奏をしている。50年以上続けているわけだけど、疲れるどころか、毎晩楽しくて仕方がないんだ。観客も本当に楽しんでくれているのがわかるし、音楽は一向に古くならない。僕らの演奏もエネルギッシュそのものだ。今、ようやく日本に帰れること、しかも東京ではBlue Note JAZZ FESTIVALの一環ということで、ものすごく楽しみにしているんだ。





Blue Note JAZZ FESTIVAL in JAPAN 2024
⽇程:2024年9⽉21⽇(⼟)、22⽇(⽇)
※シカゴは9月22日に出演
開場12:00 開演13:00 (両⽇ともに)
会場:有明アリーナ


出演:
▶︎9⽉21⽇(⼟)
NAS
PARLIAMENT FUNKADELIC feat. GEORGE CLINTON
MISIA & ⿊⽥卓也BAND
TANK AND THE BANGAS
.ENDRECHERI.

▶︎9⽉22⽇(日)
CHICAGO
MARCUS MILLER
NILE RODGERS & CHIC
SNARKY PUPPY
CANDY DULFER

オフィシャルサイト:https://bluenotejazzfestival.jp/


シカゴ大阪単独公演
2024年9月24日(火)グランキューブ大阪
開場18:00/開演19:00
公演詳細:https://udo.jp/concert/Chicago24


シカゴ
『ライヴ・イン・ジャパン』
2024年9月18日発売
2枚組CD / 3,300円(税込)
ジュエルケース・パッケージ仕様2CD
予約:https://WarnerMusicJapan.lnk.to/chicago_liveinjapan72Pu


『シカゴ・アット・ジョン・F・ケネディ・センター 1971』
2024年10月23日発売(輸入盤:9月27日発売)
3枚組CD / 4,400円(税込)
予約:https://warnermusicjapan.lnk.to/chicago_jfk71Pu

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