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初高座はまったくウケなかった 猫の出演だけ爆笑も、お茶子さん「アンタ出世するわ」 話の肖像画 落語家・桂文枝<10>

産経ニュース / 2024年5月10日 10時0分

《昭和41年12月1日、桂小文枝師匠(※後に五代目文枝)に入門して、「三枝(さんし)」の名前をもらう。最初は、あまり気に入らなかったという》

小文枝師匠のところに弟子はいない、と思い込んでいたのですが、実は1人いましてねぇ。結局すぐに辞めてしまうのですが、師匠としては、自分も含めて「3番目」という意味があったらしいけど、僕は「文三(ぶんざ)」がええなぁ、と考えていたからどうにも気に入りません。

後で、『鳩(はと)に三枝の礼有(れいあ)り』という言葉(※子鳩は親鳩に敬意を表して3つ下の枝にとまるという意)があることも知って、悪くないな、と。僕が(三枝の名前を)大きくしたらいい、と思い直しました。

これはもっと後の話になりますが、僕がラジオ番組に出るようになったとき「さんし」と聞いてリスナーは「三枝」と、はがきになかなか書いてくれなかった。「三四」とか、ひどいのは「惨死」とか(苦笑)。一方で司会をやるときプログラムやビラに「三枝」と書かれると、女性とよく間違われました。「みえ」さんって。そこで僕が登場したら何や男かって。

《師匠の家での内弟子修業が始まった。家は西成区内の2階建ての長屋。師匠の身の回りから3人の幼い子供の世話、そして落語の稽古、さまざまなしきたり…。やること、覚えることは山のようにあった》

師匠はあまり、弟子に稽古をつけない人で、ほったらかしに近い(苦笑)。

稽古をつけてもらって、最初に注意されたのは「お前のは素人(しろうと)口調や。そんなんではアカン」ということでした。

というのも、それまでの僕は、学生同士でやりとりするような普通の口調でしゃべっていましたから、それが師匠には昔ながらのやり方ではない、と思われたのでしょうねぇ。

最初に教わったのは『煮売屋(にうりや)』でしたなぁ。師匠がいわれる素人ではない「プロの口調」というものが僕にはよく分からず、結局、ダメ出しされてばかり。そのうちに師匠もイライラしてきて、稽古が打ち切られてしまう。その繰り返しでしたねぇ。

《プロの落語家としての初高座は、入門から半年たった42年5月31日。大阪・道頓堀(どうとんぼり)の角座(かどざ)だった》

角座は松竹芸能の劇場です。師匠は吉本興業の所属でしたが、当時の僕はまだ、どこの会社にも所属していませんから出演できたのです。当時、興行は10日ずつ(上席、中席、下席)で「大」の月は、余った1日を「余一会(よいちかい)」として若手の落語会などを開いていました。

ネタは師匠から習った『煮売屋』。客席には大学時代の落研(おちけん)のメンバーや後輩がたくさん駆け付けてくれました。

僕の出番はもちろん最初。舞台に上がるのは大学時代からやっていたので、落ち着いてはいましたんですけど、噺(はなし)を始めても「くすり」とも笑いが起きません。

師匠に教わったように〝素人口調〟にならないように気を付けながら噺を続けましたが、そうすればするほど古臭い感じになってしまい、まったくウケないのです。突然、大爆笑が起きたのは黒猫が舞台を横切ったときだけ…。

しょんぼりしている僕に、古手のお茶子(ちゃこ)さん(※劇場のお手伝いをする女性)が、「アンタ出世するわ。初舞台のときに猫が出た芸人は、みんなそうなんや」って励ましてくれました。黒猫は噺家の着物をねずみにかじられないように彼女が飼っていたものでした。

後でその〝言い伝え〟は「作り話」と知りましたが、落ち込んでいる僕にとってはどれほどうれしかったことか。(聞き手 喜多由浩)

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