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元相方のフット岩尾望はM-1王者に。「俺は何をしているんやろう…」カネシゲタカシが自身への“戦力外通告”を経て見つけた居場所

集英社オンライン / 2023年7月1日 11時1分

光が強ければ強いほど、影は濃くなる。テレビの中で笑いを披露する人気芸人の後ろには、出番を待つ無名の芸人がいる。才能の限界を感じてその世界から去る者も数えきれない。仲間の才能をうらやみ、嫉妬にさいなまれ、人間関係に苦しんだ元芸人――。なぜ彼らはお笑いの世界をあきらめ、別の場所を選んだのか。今回登場するのは、かつて岩尾望(現・フットボールアワー)とコンビを組んでいたカネシゲタカシ。現在は漫画家、イラストレーターとして活動するカネシゲだが、芸人引退後には苦悩の日々があった。(文中敬称略)

元相方がM-1グランプリ優勝

2003年12月28日。「M-1グランプリ」決勝の夜、元芸人のカネシゲタカシはアルバイト先にいた。かつて「ドレス」というお笑いコンビを組んでいた相方が頂点に立つシーンを不思議な気持ちで眺めていた。



カネシゲは振り返る。

「1999年3月に、岩尾望と組んでいたコンビを解散しました。その後東京でアルバイトをしながら漫画を描いていたんですが、フットボールアワーのふたりが優勝するのをバイト先のパチンコ店のテレビで見て、焦りを感じました。『俺は何をしているんやろう』と」

元相方の岩尾は、同時期にやはりコンビを解散していた後藤輝基と「フットボールアワー」を結成。2002年に上方漫才コンテストで最優秀賞に輝いていた。

2001年に始まったM-1グランプリでは3回連続で決勝進出し、この年、見事に頂点に立った。岩尾は当時28歳になったばかりだった。

「NSCの同期なので、後藤のこともよく知っていました。ふたりがコンビを組むというのを人づてに聞いて『そうなんや』と思ったくらいでしたが、漫才をするというので驚きました。岩尾と僕はコントばかりやっていたので」

芸人を引退したカネシゲは、漫画家のアシスタントになるために上京していた。しかし、その漫画家の連載が終了したために、居場所を失ってしまった。

「アルバイトしながら、ひたすら4コマ漫画を描く生活をしていました」

テレビの中で祝福を受けるM-1王者が、カネシゲにはまぶしすぎた。

現在は漫画家、イラストレーターとして活動するカネシゲタカシ

“いじめられっ子が手を組んだようなコンビ”

もともと岩尾とカネシゲは大学時代の同級生だった。

「当時の僕はパンクバンドを組んでいて、ミュージシャンを目指していました。電気グルーヴなんかも好きで、音楽にサブカル系のお笑いを入れたら面白いかなと思ったんですけど、いい感じのサークルがなくて。

漫才研究会のドアを開けたら、そこに岩尾がいたんですよ。学部も専攻も一緒で、出席番号も近かった。岩尾はそこにおるだけで雰囲気がある存在でしたね」

そこから人生が動き始めた。

「サークルの合宿かなんかで、先輩に『女の子をナンパしてこい』と言われたんですけど、ふたりとも声をかけられるようなタイプではなくて。

話しながら時間をつぶしているうちに、岩尾が『秋からNSCに行こうと思ってる』と。それで僕は『面白そうやな。俺も行きたい』とノリで返事したんです」

NSCとは吉本興業のお笑い養成所のことだ。1期生はダウンタウン。その後もナインティナイン、千原兄弟、中川家、ケンドーコバヤシ、陣内智則など数多くの人気芸人を世に送り出している。

「ある日、岩尾から電話がかかってきて『14期生の募集があるみたいやけど、どうする?』と言われて。正直、忘れてたんですけどね。ふたりでお笑いコンビを組もうと熱く語りあったこともなくて、ただの友だちでしたし」

大学のときに出会った岩尾望とともに「ドレス」として活動

コンビ名は「ドレス」。先輩である東野幸治の番組に出たときに「いじめられっ子が手を組んだコンビですか」といじられたほど地味だった。

主戦場は大阪・難波にあった心斎橋筋2丁目劇場。

「関西のテレビ局はお笑い番組も多かったんで、そこで頭角を現すコンビもいました。劇場独特の文化があって、みんなが戦わされるんです。ランキングをつけられて、昇格したり降格したりの繰り返しでした。

価値基準は面白いかどうか。貧乏だとか友だちがいないとか、社会的にマイナスなことでもお笑いに変えることができればオールOK。価値観がひっくり返るオセロみたいな環境ですよね」

「何で戦えるか?」「何もない」コンビ解散へ

若い芸人たちとしのぎ合いを続けるうちに、「ここは長く戦う場所じゃない」とカネシゲは思うようになった。

「芸人として活動すればするだけ、ほかの芸人たちと刀を交えれば交えるほど、そんな思いが積み重なっていきました。俺には決定的に何かが足りていない、と。

野球選手にたとえるとすれば、『走・攻・守』のすべてが足りない。何もかもが足りない。『何で戦えるか?』と自分に問いかけて出てきた答えは『何もない』でした」

ネタはもっぱら岩尾が考えていた。

「相方が書くネタが面白ければ任せっきりになってしまう。主導権は岩尾にあって、僕はそれをサポートするような形で。自分のツッコミにキレがあるわけでもないし、『俺はどうすればいいのか』と考えるようになりました」

そんなころ、2丁目劇場の閉鎖が決まる。コンビ解散にカネシゲの気持ちが傾いていった。

「ふたりは殴り合いをするわけじゃないし、特別に仲がいいわけじゃないし。もともとは同級生ですけど、ビジネスパートナーという感じでした。活動していくうちに、意見の食い違いはいろいろとありました」

カネシゲはNSCに入ったときに講師の放送作家から「コンビが長続きする秘訣」を聞いたことがある。

「ふたりでネタをつくっているか、仲がいいか。『そのどっちかなら、長く続くから』と。でも、うちらのコンビはどちらでもなかった。そうなると、やっぱり苦しくなる。

先輩や同期を見ても、そのふたつがないところから、解散していきましたね。あの作家の先生の指摘は正しかったと思います」

岩尾もカネシゲも当時はまだ20代半ば。不満や不安の矛先が相方に向かうことがあっても不思議ではない。

「僕が『やめようと思うんや』と言ったら『そうか……』という感じでした。おそらく、向こうもこのコンビで長くやっていくのはきついと思ってたんじゃないでしょうか。岩尾は『俺、これからどうしようかな。ピンでやろうか』と言っていましたね」

漫画家としてのセカンドキャリア

もしあのままコンビで活動を続けていたらどうなっていただろうか?

「岩尾とずっと組んでいれば、その後もテレビに出ていたかもしれません。でも、自分で満足できなかったし、毎日がつまらない……僕はたとえ未熟でも自分で考えたことを、自分の思い通りに出したい人間なんだっていうことに気づいていました。

『自分でモノをつくってナンボの人間』だと思って、僕から解散を言い出したんですね。『俺は漫画の世界でやっていく』と伝えました」

岩尾がM-1チャンピオンになって20年。カネシゲは今、漫画家、イラストレーターとして活動している。

『週刊少年ジャンプ』(集英社)の第2回コマキン大賞で準キングを受賞。その後、『週刊少年ジャンプ』『ガンダムエース』(KADOKAWA)、『まんがライフ』(竹書房)などに作品を発表した。

プロ野球を題材にした書籍『野球大喜利』シリーズ(徳間書店)、『みんなの野球あるある』(講談社)など多数の著書がある。

岩尾と比べれば時間はかかったが、自分の力で戦う場所を確保した。

「プロ野球を大喜利にしたシリーズが売れたのは、お笑い芸人時代の経験があったから。僕は大喜利がヘタクソで、点数でいえば60点くらいなんですけど、漫画家としてツッコミ役に徹し、皆さんのボケ回答をいじったり広げたりしたことで長く続くものになった。芸人時代の経験をやっとマネタイズできました(笑)」

お笑いコンビ「ドレス」としての活動期間は4年ほど。しかしこの時間はカネシゲには大きな財産となった。

「日本一の漫才師と4年もコンビを組めたんですから。その後、違う世界に飛び出したとき、モノサシになりました。

どれぐらいの才能のある人間が、どれくらい頑張ればいいのか。どうすればあの位置までいけるかというのがなんとなくわかるようになりました」

かつての仲間や先輩・後輩たちが芸能の世界で成功をつかんでいる。売れる人と売れない人との間にはどんな違いがあるのだろうか。

「賞レースでチャンピオンになっても、売れない人もいます。自分が前に出て面白さを打ち出すことも大事ですけど、まわりを生かす優しさもないといけない。

テクニックだけじゃなくて、根本的な人間力が試されるのかもしれない。ネタが面白いだけでは難しい」

30代になった自分が売れっ子芸人たちと競い合い、勝ち上がるイメージはカネシゲにはなかった。

「ライブのエンディングとかで、売れる人は前に出るだけで爆笑を取っていく。もし僕がもう一度人生をやり直したとしても、たぶん前に出る勇気はない。出ていかなくてもまわりからいじられる人もいるけど、そういうタイプでもない。

芸人って、欠けていれば欠けているほど面白いと思います。ただ、あまりに欠けすぎるとテレビに出られないし、出番が限られてしまう」

「フットボールアワー」は、いまやテレビ番組に欠かせないお笑いコンビだ。

「もともと後藤はあんなに明るい感じのやつじゃなかったんです。売れるために変わっていった。岩尾は昔のアングラ的な不気味さがなくなって、かわいくなっていきました(笑)。

見た目もそうだけど、面白いのは声ですね。だから、コメンテーターとしても存在感を出せる」

「必要なら、自分で自分に戦力外通告をしなければ」

24歳で芸人を引退。その後、下積みの期間を経て、自分の戦場を見つけたカネシゲ。実は、コンビとして活動しているときに漫画家デビューを果たしていたのだが、相方には知らせていなかった。

「『ジャンプ』で賞をとって担当編集者もついたんですが、自分の作品が掲載されたことを岩尾には言えませんでしたね。賞金ほしさに応募したというのもあるし、岩尾がネタをつくってくれているのにほかのことをすることに抵抗があって」

しかし、その経験がカネシゲの進路選択に大きな影響を与えた。

「お笑いの仕事が忙しくなって漫画を描くのをやめたんですけど、ひとりで紙に向き合ってペン1本で描くのならば自分でも戦えるかもと思ったのは事実ですね。

だから、コンビ解散のときに『漫画に行く』と言えたんでしょう。芸人をやめるタイミングはもっと早くてもよかったかもしれないけど、今から考えればベストだったと思います」

今も芸人時代の仲間とバンド活動を続けるカネシゲは、後輩から相談を受けることもある。

「やめようかどうか迷っていますと。そんなとき、僕はこう言います。好きだったら続ければいい。なぜならそれは生きがいだから。才能がなくても続けるべきでしょう。ただ、それほどの情熱がなくなっているのなら、やめたほうがいいでしょうね。時間がもったいない」

誰もが1年ごとにひとつずつ年をとる。この先、売れない芸人には厳しい未来が待っている。

「長く芸人でいればいるほど、違う世界に踏み出せなくなる。この先どうするかは、自分で決めないといけない。必要なら、自分で自分に戦力外通告をしなければ」

元相方はテレビの世界で、カネシゲは別のフィールドで――それぞれの道を歩んでいる。

「自分の頭の中にあるものを形にする――漫画という表現の幅は広いです。でも、今ではもう、やりたいことは漫画だけではなくなっています。

コラムも書きますし、舞台や野球イベントの構成を任されることもあります。最近はテレビ番組のイラスト制作の仕事が急増し、会社もつくりました。

5歳の娘がいるんですけど、子どものための絵本も書いてみたい。いろいろな勉強をして、準備をして、絵本を描くことをライフワークにしたいという思いがあります」

取材・文/元永知宏
編集・撮影/一ノ瀬 伸

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