ヤクルト球団のプロ野球労組復帰に奮闘したエース・尾花高夫は今? 保護司として草の根の人権広報活動に励んだことも
集英社オンライン / 2024年10月21日 17時0分
〈1986年、ヤクルトが突然プロ野球労組を脱退した理由。尾花高夫が今だから明かす“ヤクルトならではの事情”〉から続く
球団による“搾取”から脱却し、選手たちの権利を獲得するため、1984年に設立されたプロ野球選手会労組。だが、1986年の開幕直前にヤクルト選手会が突然、労組からの脱退してしまう。その後、球団の労組復帰に奮闘したのがエース・尾花高夫だった。当時の苦労と、知られざる現在の尾花の活動にスポットをあてる。
【写真】セ・リーグで3年連続最多敗戦投手だったヤクルトのエース
中畑の要請を受ける以前より、ヤクルトの労組復帰を考えていた尾花がとった行動は、まず、選手全員の意見を聞くというものだった。
「あのときの選手会三役は僕と(小川)淳司と高野(光)、そして会計が広澤(克己)でしたかね。ただあまり他の選手を巻き込みたくなかったので、この件で動くのは自分だけでやろうと思っていました」
行動は速かった。尾花は一軍、二軍すべての選手を集めて、選手会労組への復帰を望むか?という問いを立てて訊いた。3人の選手だけが回答を保留して他は全員が、戻りたいという声を上げた。
「3人は新人と二年目の選手で要は『よく分からない』というものだったんです。それで
組合に入るとどういうことになるのか、説明をしたら、『そういうことなら、どっちでもいいです』という返事だったんで、じゃあ、もう総意として、労組に復帰に向けてやってみようと決意しました。
あれが、半数でも『いや、戻りたくないよ』という回答だったら労組脱退のままだったと思いますね」
1年待って下さいという中畑への回答はこの総意を確認してからのものだった。そこからの動きは選手会3役にも伝えない極秘裏の単独行動となった。
尾花は会社のフロント幹部と親しい外部の人物から情報をとることにした。復帰する上では何がネックであるのか、虚心坦懐に訊き、会社の意志を探った。
会社の上は何を考えているのか。もうほとんどとりつくしまは無いのか。それともまだ望みはあるのか。あるならば、それはどう動けば広がるのか。
復帰に向けて画策しているという事が会社に漏れれば、その段階で潰されてしまう。意見と情報をくれる人間は絶対に信頼できる人間でなくてはならなかった。
「とにかくフロントの考え方を知るっていうのはとても大事なことだったのでそこに力を注いだんですが、会社の人は、どんなにいい人でも最後は組織の方になびくじゃないですか。
寝返りを打たれて全部筒抜けになってしまうと一発アウトですから、情報を集めるための人選は外部からしっかりと考えましたね。
日頃の人との付き合い方を見て、“この人は人の悪口を言わないから信頼できる”などと判断したんですが、その人と会っている所をフロントの人に見られないようにしないといけないし、ものすごく慎重にやっていました」
携帯電話もない時代である。不便ではあったが、安全な場所や時間を設定して、これはと信じた選手の立場に理解が深い人物とコミュニケーションを取った。
ネックはやはりオーナーだった。逆に言えば、そこさえ説得できれば、他のフロント幹部も復帰について障壁になることはないと確信できた。
交渉事はテーブルにつくまでが勝負でもある。団体交渉のように正面からは行けなかったが、情報を収集することで希望は見えて来た。ヤクルトが労組を脱退してからすでに3年が経過していた。
選手会労組は理不尽な活動を展開するわけでもなく、筋の通った運営を重ねたことによって世論の支持も厚くなっていた。時代の流れとしてもヤクルトだけが足並みを乱していると社会的に受け取られるのも企業イメージとして得策ではない。
フロントも決して頑なではないことがわかってきた尾花は「復帰するためには、我々はどうすればいいでしょうか」と踏み込んだ意見を発信した。
一方で尾花は、対立感情ではなく、オーナーの気持ちも理解していた。
「やっぱり、ヤクルトという会社の根底にはヤクルトおばさんと呼ばれる人たちがいらっしゃるじゃないですか。あの方たちは、乳酸菌飲料を1本売って何円の仕事をしておられる。その人たちのおかげで会社が大きくなって球団を持つに至った。
それを、プロ野球選手だからといって、FAなんかで一気に大金を得るという主張の方向にいきなり走り出したら、どう思われるのか。傲慢に映ってそういう方たちのモチベーションを下げてしまうんじゃないか?ということだったと思うんです」
頃合いと見た1988年10月、新橋ヤクルト本社で田口周代表、相馬和夫社長との2対1の会合を持った。
「イエスをもらうために行ったので、言葉選びはすごくしましたよ。やっぱり刺激を与えないようにしなきゃいけないし、『そうだな、お前のいう事ももっともだ』と思ってもらうように伝えないといけない。
それはもう本当に考えましたね。最終的には『よろしいですか』『分かった』という感じで。フロントもオーナーに報告に行くときは腹をくくって行ったと思いますね(笑)」
こうして大願は成就した。
セ・リーグの3年連続最多敗戦投手
尾花は根回しに動いたこの1988年に9勝16敗と負け越した。
「僕はあの当時はセ・リーグの3年連続最多敗戦投手ですよ」
けれど、防御率は2.87、登板イニング数は何と232回と投げまくっている。これだけのイニングを食いながら、選手会労組の復帰作業に奔走していたことをほとんどの選手は知らなかった。
今年一月、メジャー志向の強いロッテの佐々木朗希投手がその選手会から脱退をした。所属していても意味がないと判断されたとの報道もなされていた。尾花は淋しさを少しだけ見せつつ、先人としての矜持を語った。
「それは選手個々の判断だと思うんですが、まあでも、脱退しても同じ権利を得てるわけですよね。そのへんがまた不思議ですよね。選手会の事務局とか、NPBがそこはちゃんと線引きをしないと、何のための労組であるかあやふやになってしまうと思うんですよ」
現役引退後も尾花は人知れず、人間の尊厳や人権に関わる仕事にボランティアで従事している。伊勢孝夫コーチの紹介で知り合った弁護士から、「世の中の役に立つ仕事をやってみないか」と誘われて26年間に渡って保護司の仕事をやり続けてきたのである(現在はやめている)。
「保護司」法務省のホームページによれば、「犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える民間のボランティア」とある。
ウイキペディアにも記載されているこの尾花のキャリアを読んで、てっきりプロ野球選手、コーチの経験を活かして、保護観察処分にあたる人々と向き合い直接的な指導をしていたものと思っていた。ところが、26年間続けて来た仕事内容は、そうではなかった。
「法律とかいろいろ学ばなきゃいけないので、それはないですね。保護司の仕事はたくさんあってめちゃめちゃ大変なんですよ。僕は更生するための作業に関わるんではなくて、野球で言えば、ボール拾いのような仕事です。
極端に言ったら、小学校とか中学校に出かけて行って資料のファイル詰めをやったりとか、7月の人権強調月間には、『社会を明るくする運動』として街頭に出てチラシやひまわりの苗を撒いたりとか、そういうお手伝いをずっとやっていたんです」
保護観察ではなく、犯罪予防活動。表には出ない。それは〇〇アンバサダーと言った晴れやかなスポットライトを浴びていたアスリートがその知名度を利用してのアナウンスではなく、地域における草の根の人権広報活動を地味に支える黒子作業であった。
毎年7月に東京・港区の街頭で、ひと際背の高いがっしりした男性から人権啓発ビラをもらった人はそれが、プロ通算112勝をあげ、ロッテ、ヤクルト、ダイエー、ソフトバンク、巨人、横浜でコーチ、監督を務めた人物であることに気づいていただろうか。この陰徳(人知られないように密かに行う徳)の精神はどこから来たのか。
陰徳の精神の背景にあったPL教団の教え
「両親の影響もありますが、やはりPLに行ったことですかね」
それは、PL野球部の寮生活で培われたものなのか。あの地獄のような上下関係でもまれたからこそ、今の自分がある…。ところが尾花はこれを言下に否定した。
「いえ、野球部ではありませんよ。野球部は酷いこともありました。自分が影響を受けたのは、教団の教えですよ。『人生は芸術である』から始まって、21カ条(:処世訓21カ条)というのがあるんです。『世のため人のためになるような人材になりなさい』という教えですよ」
尾花はPL野球部OBがよく口にする体罰の経験主義に囚われていない。ここで尾花は「これは保護司とは少し離れた話ですが…」と現在の活動について語り出した。
「今は、ハラスメント全般が問題になってるじゃないですか。これは、従来の心理学の『SR理論』で関わってるからそうなるんです。Sは『stimulus』=『刺激』、Rは『response』=『反応』、相手に刺激を与えて、コントロールしようとするやり方。
つまりは一方的な命令を下して、罰したりして、相手を変えようとするやり方です。これをやっている限りはハラスメント問題は解決しないんです。
その逆に『選択理論心理学』というのがあって、これは人の行動は外からの刺激ではなく、自らの願望に照らし合わせて選択されるという考え方。つまり自分を変えることができるのは他者による支配や飴とムチではなくて、結局自分自身なんですよ」
スポーツの現場で長きに渡って行われてきた、怒鳴る、叱る、ペナルティを科すという指導では人は変われない。結局、内的変化を促すことでしか、成長を得られない。尾花はプロ野球のピッチングコーチや監督を歴任し、多くの選手を指導してきた中でこの考えに至ったという。
そしてそれはアメリカの精神科医ウィリアム・グラッサー博士が提唱した心理学に出逢い学術的な裏付けと言語化を得ることができた。今、「選択理論心理師」という資格を得て、その「選択理論」を広める活動をしている。
「ハラスメント問題をなくすためには、強い刺激で指導する「外的コントロール」の関わりをやめて「内的コントロール」に移行するということが前提なんです」
39年前に選手たちがオーナーや球団の持ち物に甘んじることなく、自分たちの意志で動き出して自立した考えを持つ選手会労組を作った。
その事もまた外的から内的への移行ではなかったか。低迷していたヤクルトは1990年代に黄金時代を迎えるがそれはまたこの89年の選手会労組の再加盟を経てという事実もまた忘れてはならない。
文/木村元彦
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