〈箱根駅伝〉花田監督が武井隆次、櫛部静二と築いた「早大三羽烏」時代…明らかに実力の劣る花田に当時の瀬古利彦監督がかけたやさしい言葉
集英社オンライン / 2025年1月2日 9時0分
今年の箱根駅伝でも奮闘する早稲田大学の駅伝監督を務める花田勝彦監督。同校OBには瀬古利彦、渡辺康幸、佐藤敦之、竹澤健介、大迫傑など歴代の日本代表長距離選手がズラリと名を連ねるが、花田自身もその一人だ。現在は監督として勝負する花田だが、現役時代は箱根駅伝に向き合っていたのだろうか。
【画像】早大三羽烏のひとりとして現在も日本の長距離陸上界に貢献する人物
『学んで伝える ランナーとして指導者として僕が大切にしているメソッド』(徳間書店)より一部抜粋・再構成してお届けする。
基本の基本をおろそかにしない
東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」は、今やお正月の風物詩として日本中の誰もが知っている大会であり、ビッグイベントだ。
しかし、私が高校生だった当時、関西在住の私にはあまりなじみがなく、私自身もそれほど興味をもっていなかった。
瀬古さんが勧誘してくれた際にたびたび、「関東には箱根駅伝がある」と話されていて、それで認識したくらいだ。
日本テレビ系列による生中継が始まったのは1987年の第63回大会から(私が中学3年生のとき)で、当時は今のようには箱根駅伝の人気は過熱していなかった。
初めて箱根駅伝を真剣に見たのも、高校3年生のときだった。早稲田大学への入学が決まってからだ。
受験前に競走部の寮を見学に行った際に、4年生で主将、さらにはチームの大エースだった池田克美さんにお会いしたことがある。
早稲田は前年度の箱根駅伝でシード権を落とし(当時は9位までに翌年のシード権が与えられた)、その年は予選会を4位で勝ち上がって、本大会の出場を決めていた。
池田さんは、その予選会で個人トップの活躍だった。
「君が来年入ってくる花田か。入れ替わりになるけど、俺たちがちゃんとシード権を獲っておくから心配するな。任せておけ!」
池田さんは、まだ箱根駅伝に予選会があることすら知らない私に、そんな言葉をかけてくれた。
そして、初めて見た箱根駅伝で、池田さんは早稲田のエースとして貫禄の走りを見せた。エース区間の2区を任された池田さんは、8位でタスキを受けると、前を走る選手を次々と抜き去った。
20キロを前に2位に浮上すると、先頭を走る山梨学院大学の留学生ジョセフ・オツオリ選手を猛然と追った。そんな走りを見て胸が熱くならないわけがなかった。
「これはすごい大会だ」
そう認識を改めるのには十分なインパクトだった。
池田さんは、区間賞こそオツオリ選手に譲ったものの、6人抜きの活躍で区間2位だった。
早稲田はその後順位を落としたが、9位に踏みとどまりシード校に返り咲いた。池田さんが私に宣言したとおりの結果になった。
歩くスピードから、シャレにならないほど速かった元五輪代表のレジェンド
早稲田に入学する前の2月、私は沖縄県の西表島にいた。同島で行われるエスビー食品の合宿に呼んでもらったのだ。
西表島には、まず那覇に行き、さらに飛行機を乗り継いで石垣島で一泊して、翌朝に船で渡った。約50分ほどだが、海が荒れていたのか意外と船が揺れたので、私は船酔いして、やっとの思いで西表島に到着したことを覚えている。
到着した日は、午後に軽くジョグをしただけで終わった。
いよいよ明日からは憧れの瀬古さんの指導が受けられる─そう期待していた私が、瀬古さんから最初に教わったのは、なんと〝歩く”ことだった。
「そんなに練習量をやったことがないから、朝練習は歩こうか。歩くことは基本だよ」
瀬古さんはそう言うと、泊まっていた旅館の庭にあった拳より少し大きい石を2つ拾って、私に渡した。「この石を握って歩け」ということだった。
日本の最南端にある八重山諸島に位置する西表島の日の出は、この時期だと7時半前と遅い。
朝練習の時間は少し遅めで6時30分集合だったが、あたりはまだ暗かった。
当時の西表島には信号機が1つしかなく、それも交通ルールを学ぶために小学校の前に設置されていると瀬古さんから聞いた。車も数えるほどしか走っていなかったからだ(だから合宿には最適とも言っていた)。
そんな状況なので当然、街灯もほぼなかった。真っ暗いなか、どこで折り返すかも知らされないまま、私は瀬古さんと2人、歩き始めた。
瀬古さんの歩くスピードは、シャレにならないほど速かった。
歩くというよりはもはや競歩に近いスピードである。私も決して遅いほうではなかったが、手に大きな石を持ち、走りに近い腕振りをしながら歩いているので、数分歩くごとに少しずつ遅れ始めた。
小走りして、追いついてはまた遅れ、追いついては遅れと繰り返すこと30分。ようやく空が明るくなり始めた頃、瀬古さんは折り返して、元来た道をまた猛烈な速さで歩き始めた。
今振り返ると、感動的な一場面かもしれないが、そのときは「これが明日からいつまで続くのだろう」と恐怖と不安でしかなかった。
約1時間歩いて、ようやく旅館の前に着いたときには、私は汗だくで、石を持ち続けた上腕二頭筋は、伸ばすのを拒むかのようにパンパンに張っていた。
「なんだ、ウォーキングか」となめていたが、こんなにきつい朝練習は初めてだった。
このように、世界を目指す私に対する瀬古さんの指導は、歩いて土台づくりを始めるところからスタートしたのだった。
武井隆次と櫛部静二との切磋琢磨
この合宿では実業団選手のすごさも実感させられた。
本練習では、1984年のロサンゼルスオリンピック男子10000メートル7位入賞の金井豊さんと一緒に走る機会があった。
一緒にというと聞こえはいいが、金井さんが5キロ3本をやるうちの1本だけ、1000メートルのインターバル20本をやるうちの5本だけを混ぜてもらうといったかたちだった。それでも、金井さんについていけず遅れてしまった。
金井さんが50キロ走をやるときには20キロまで私も一緒に走る予定だったが、途中で遅れてしまい、金井さんの伴走をしていた車に迎えに来てもらう始末だった。
トラックシーズンに入る前の2月は、高校ではサーキットトレーニングが中心で、スピード練習はあまりやっていなかった。
今思えばできなくて当然だが、マラソンランナーはこんなにすごい練習をするのかと驚かされた。
と同時に、自分も将来はマラソンランナーになるつもりだが、はたしてこんな練習ができるようになるのかと不安になった。
とにかく、ここでしっかり土台づくりをして、スムーズに大学生活に入ろうとがんばったが、そううまくはいかなかった。金井さんたちと20キロ走をやったあと、右のアキレス腱が痛くなってしまい、合宿後半は走れない日々が続いた。
合宿から戻ってからもあまり良くならず、少し体重も増えた状態で競走部合宿所に入寮。私の学生生活がスタートした。
*
同期には、高校時代から全国トップクラスの実力を誇っていた武井隆次君と櫛部静二君がいた。
武井君は、高校生として初めて5000メートル13分台を出した選手で、前述したように、3年時の全国インターハイで1500メートルと5000メートルの二冠を成し遂げていた。
本人に言うと怒られそうだが、見た感じはおっとりしていてアスリートっぽくないのだが、練習が始まって「1周〇〇秒ペースで」と言われれば、時計を見なくてもそのとおりに正確にペースを刻む。
全国選抜合宿で一緒に練習したときに、そのすごさを肌で感じていた。
櫛部君は、3000メートル障害のインターハイチャンピオンで、高校3年時には8分44秒77の驚異的な高校記録を打ち立てている。その記録は、のちに三浦龍司選手(現・SUBARU)に塗り替えられるまで、30年もの間破られることがなかった。また、長い距離も得意としており、10000メートルの高校記録ももっていた。
一方、私の実績はというと、ジュニア選抜陸上の1500メートルで優勝はしたものの、インターハイは5位にすぎない。
武井君、櫛部君、私の同期3人は、「早大三羽烏」などと称されたが、明らかに私の実力はほかの2人に比べると劣っていた。しかも、ケガまでしていたのだから、マイナスからの出発だった。
私たち3人は、瀬古さんが勧誘して早稲田に入った初めての選手たちだ。いわば、瀬古門下の一期生ともいえる。瀬古さんの私たちに対する期待も大きかったはずだ。
武井君は高校生ナンバー1の選手で完成された選手。櫛部君は実績はもちろんだが、その走りぶりは将来が楽しみな選手。花田は、まだ専門的な練習をやっていないから未知数……。入学当時の3人の評価はこんな感じだったのではないだろうか。
今も忘れない瀬古利彦への監督
実際、即戦力ルーキーの武井君と櫛部君は、1年目のトラックシーズンから関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)や東京六大学対校陸上競技大会などでエンジのユニフォームを着て活躍していた。
その傍らで、同じスポーツ推薦の立場ながら、私は補助員や応援要員でしかなかった。走れない期間、2人との差はどんどん大きくなっていった。
元気のない私を見かねて、瀬古さんは頻繁に声をかけてくれた。
瀬古さんはポイント練習のある日しか所沢には来なかったが、ケガで走れない私にも必ず声をかけてくれた。
「花田、足の調子はどうだ? 落ち込んでいてもしかたないから飯でも食いにいこう」そう言って、練習後に都内で待ち合わせて食事をご馳走してくれた。
また、瀬古さんから紹介された治療院の帰りには、瀬古さんが監督をしていたエスビー食品陸上部のクラブハウスに呼ばれ、夕食をご馳走してくれたこともあった。
ケガが良くなって、ようやく試合に出られるようになったのは7月だった。
その期間、腐らずにリハビリを続けられたのは、そうした瀬古さんのサポートがあったからだと今も感謝している。
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