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香港映画に恋をして…私が会ったアニタ・ムイ、レスリー・チャン、ブリジット・リン

集英社オンライン / 2022年7月26日 12時1分

ジャッキー・チェンを輩出した香港映画は、1990年代には大ブームを迎えハリウッドにも多くのスターが進出した。洋画好きで渡米しながら、香港映画に魅せられ、通いつめ、ついには香港スターの本を上梓!…そんなライターの鉄屋彰子さんが、香港と世界で活躍した俳優たちとの貴重な思い出を綴る

ハリウッド映画から香港映画へ…

長く映画ファンに親しまれた「ロードショー」。休刊からレーベル復活とのニュースに、うれしさと懐かしさの入り混じった思いがある。『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)を見たのがきっかけで映画ファンになった私は、まずは読者として「ロードショー」を手にし、のちにLA在住中にライターとしてもすこ〜しだけ、小さな記事を書いたりして関わることができた。いやむしろ、お世話になったと言ったほうがいい。この特集にふさわしくないかもなぁ、と思いつつ、書いてみようと思う。



1980年、私は学生ビザを取得して、単身、知人もいないロサンゼルスへと札幌から旅立つ。まだ留学ガイドの本もインターネットもない頃だったが、映画雑誌に投稿したり、同好誌に散文を書いたりしており、映画好きならアメリカに住んでみるべき、と思ったのだ。
地元の北海道新聞に映画コラムを送る約束があり、新作映画の紹介や、『スターウォーズ/帝国逆襲』(1980)公開の2、3日前から路上でキャンプして入場一番乗りを目指す熱狂的なファンの姿などをリポートしていた。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)の初日上映で、ハリソン・フォードの階段を降りる足がアップになった瞬間に館内の女性ファンから湧きあがった嬌声!とか。あのときは純粋に驚いた。アメリカの観客ってスゴいと思った。

『レイダース』のハリソン。このころ人気絶頂だった
© Everett Collection/amanaimages

当時、LA在住の映画ライターは数えるほどしかいないなかった。次第に映画誌、女性誌、スポーツ紙、週刊誌から原稿依頼が舞い込む。業界で“ジャンケット”と呼ぶ監督、脚本家、スターたちとのインタビュー、ロケ撮影やセット訪問などの取材で忙しかったし、うれしくもあった。
キャリアの初期に会って何か持っているなと感じさせられた役者が、あっという間に主役になっていくさまを間近で見ることができた。たとえば、『テルマ&ルイーズ』(1991)のブラット・ピットや、『マグノリアの花たち』(1989)のジュリア・ロバーツなど、数え出したらキリがない。それから「ロードショー」特派員の中島由紀子氏とお茶をしていたら、ウィノナ・ライダーが奥の席で知人らしい初老の男性と話し込んでいた…なんていうこともあった。

大きな転機は1995年。アメリカ人が香港映画の面白さに気づき始めた頃。私もその2年くらい前から新旧の香港映画を求めて、チャイナタウンや中華系の人々が多く住むLA郊外へ出向き、ビデオやレーザーディスクをレンタルしていた。そこには香港映画専門の映画館もあった。
90年代は香港映画が最盛期を迎えた時期で、年間200本もが製作されていたのだ。

1998年、香港のアカデミー賞というべき「金像奨」プレゼンターを務めたジャッキーと、当時のトップスター、アニタ・ムイ(右)。アニタはこのとき、『半生縁』(1997)で助演女優賞も受賞

そのようなことを知った「ロードショー」編集部H氏が私に香港国際映画祭への参加を勧めてくれた。H氏は絶大な人気を誇ったジャッキー・チェンの担当をしていた方だ。電話で映画祭のプレスパスを手配してくれて、さすが、「ロードショー」と思った。香港は地図さえあればほとんどの目的地に行けるよ、と教えられて、映画を見たり、アニタ・ムイのコンサートにまで行ったりして自信をつけた。以来、10年以上にわたってファン気質まるだしで香港に通うことになる。

アニタとレスリー・チャン(右)は80~90年代の香港エンタテインメントを牽引したスター。お互いに苦楽を共にし、『ルージュ』(1987)をはじめ共演作も多く、レスリーが監督した禁煙キャンペーンの短編映画『煙飛煙滅』(2000)では、夫婦役を演じた。奇しくも、ふたりとも2003年に亡くなった

本人にも評価されたブリジット・リンの本

LAからはるばる香港までいかなくても、香港映画スターたちがハリウッド映画に出演するようになった。ジャッキーは『レッド・ブロンクス』(1995)で全米興行収入ベスト・ワンに輝いて、ついにハリウッドも彼を認めざるをえなくなった。「保険屋がうるさくて、アクション・スタントを全然やらせてもらえない」と不満そうにしながら、ヒット作を連発。彼の兄貴分のサモ・ハン・キンポーもテレビドラマ『LA捜査線/マーシャル・ロー』(1998~2000)に主演した。

そしてジェット・リー。『リーサル・ウェポン4』(1998)でまさかの悪役デビューとは意外だった。インタビューでどうして英語名が“ジェット”なの?と不躾な質問をしたら「何故って、僕の名前はリー・レェンジェだもの。ジェに近いのはジェットだろ?」と言われて納得した。

すっかりハリウッドになじんだジェットとミシェルは『ハムナプトラ3/呪われた皇帝の秘宝』(2008)でも共演。プレミアにて
©Sipa Press/amanaimages

マレーシア出身のミシェル・ヨーは中華系ではあるけれどロンドンにバレエ留学したこともあり、キレのあるアクションが特徴の女優さん。多分ジャッキーに次いでハリウッドでもっとも成功しているアジア人スターだろう。『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997)で主役のボンドを食ってしまう大活躍だった。彼女は「香港では漢字が読めないし、広東語もあまりできなかったので、口移しでセリフを覚えていたの。今は(英語なので)脚本がわかるところはいいわね」と話していた。今年になって、念願のハリウッド主演映画『Everything Everywhere All at Once』が大ヒットして良かったなぁと思う。

筆者がブリジット・リンについて執筆・出版した『The Last Star of the East』(東洋最後のスター)。奥の右が台湾版、左が中国版

H氏のおかげで香港映画に深く関わることができた私の集大成は、ブリジット・リンの本を自費出版したことだ。ブリジット・リンは日本では一般的な知名度はあまりないが、海外の香港映画ファンなら誰でも知っている台湾出身の美人女優さんだ。彼女と、彼女に関わったツイ・ハーク監督など、香港/台湾の映画人や友人などにインタビューしたものをまとめた本を出版するまでに7年くらいかかった。海外のファンのために英語で書いたところ、のちに台湾と中国でも中国語版が出版された。2018年の香港国際映画祭で彼女がフォーカスされたとき、資料として私の本も使われたと知り、苦労した甲斐があったなぁ、と感慨深かった。

左からツイ・ハーク監督、ブリジット・リン、筆者。2011年7月、ブリジットが出版した初のエッセイ集を記念したプライベート・パーティにて

札幌からいきなり LAに行って映画の取材ができるようになり、ハリウッド・スターたちがこぞって来日するようになると、今度は香港映画に熱が入って香港通い、と私の人生はなりゆき任せのように思える。いやー、それはLAで仕事を長くしてきたからの結果で、地球は丸く、世界はつながっているということだ。

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