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ミャンマー国軍兵士から性的暴行を受けた妻と夫の苦渋の5年間

集英社オンライン / 2022年8月25日 17時1分

ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャに対し、国軍が苛烈な武力弾圧を行ってからちょうど5年が経った。当時日本でも大きく報道されたこの迫害は数ヵ月にも及び、老若男女を問わず罪のない市民が無差別に殺され、女性たちは組織的にレイプされた。被害者たちは今も、難民キャンプで5年前の記憶に苦しんでいる。

「女たちを殺した国軍兵士を忘れない」

初めて会ったときから、ヌール(仮名、当時23)は他のロヒンギャとは違っていた。

5年前の2017年8月末、ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャに対して国軍が苛烈な武力弾圧を行った。数ヵ月にも及んだその迫害は、当時日本のメディアでも大きく報道されたが、最近は取り上げられる機会も少なくなった。



ヌールはこの弾圧の生存者のひとりだ。私たちは性暴力の被害者とその取材者という立場で出会い、いまに至るまで交流を続けている。

化粧をするヌール。2017年の8月末、ラカイン州北部の彼女の村をミャンマー国軍が襲った。あれから5年たったいまも、ヌールはバングラデシュの難民キャンプで避難生活を送る。2018年12月撮影

ことの発端は、ロヒンギャの武装組織「ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)」が、ラカイン州北部の警察関連の約30施設を同時多発的に襲撃したことだった。事件後、国軍は「ARSAの掃討作戦」を名目に、即座にロヒンギャの暮らす村々に侵攻。老若男女を問わず、罪のない市民を無差別に殺し、女性たちを組織的にレイプした。さらに家財道具や金品を略奪し、家屋に火を放って村を焼き払った。

このときの死者は約1万~2万5000人と言われており、70万人以上が隣国バングラデシュ南東部のコックスバザールに設営された難民キャンプに逃れた。米政府はこの弾圧を今年3月に「ジェノサイド(集団殺害)と人道に対する罪」と認定している。

私は2018年1月に初めてバングラデシュのキャンプを訪れてから、現在まで取材を続ける。ヌールと初めて会ったのは2018年6月、2回目のキャンプ訪問時だ。性暴力の被害者女性の取材をしていた私は、知り合いのロヒンギャのつてをたどって彼女に話を聞くことができた。

キャンプにあるヌールの家は、竹とビニールシートで作られた簡素なもので、「小屋」という表現のほうがしっくりくる。濃紫色のヒジャブ(イスラム教徒の女性が頭部を覆い隠すためのスカーフ)の隙間から彼女の暗い視線を感じ、何とか少しでも話しやすい雰囲気にしたいと思案したが、結局答えは出ないままに通訳に促されて取材を始めた。

ヌールたちが暮らしていたラカイン州北部モンドー郡の村に、ミャンマー国軍兵士と地元の仏教徒ラカイン人がやってきたのは2017年8月末の未明だった。兵士たちは村人を強制的に家の外に連行すると、男たちを拘束し、ARSAの一味かと尋問した。そのときに抵抗した者は銃で撃たれたり、ナイフで切り付けられたりして殺された。若い女たちは、複数の兵士やラカイン人に性的暴行を受けた。

ヌールもまた姉妹たちともに、兵士に空き家に連れ込まれた。男たちは顔を見られぬようにヌールに目隠しをし、何度か殴った後、ロープで手足を縛って代わるがわるレイプしたという。そのときのことははっきりと思いだせないが、暴行は深夜まで続いたとヌールは語った。

性暴力の被害者に取材すると、彼女たちはそのときのことをよく覚えていないと口をそろえる。詳細を話すのは抵抗があるのだろうと思っていたが、後に被害者には意識や記憶などが一時的に抜け落ちる「解離」の症状を呈する人が多いと専門書を読んで知った。

ヌールは翌朝、夫のモハマド(当時30)によって倒れているところを発見され、すぐに村唯一の診療所に運ばれた。だが診療所にはまともな治療をするための設備も医療物資もなく、痛み止めを処方されただけだった。深い傷のせいで、ヌールは数日起き上がることもできずに診療所で過ごしたという。

その後、何とか立てるようになると、夫や兄弟に助けられながらバングラデシュへ向かい、雨季で氾濫する国境川のナフ川を船で渡って、コックスバザールの難民キャンプにたどり着いた。道中、彼女は自分のようにレイプされた女性の遺体を幾度となく目にしたという。

「男たちは妻や娘、姉妹の遺体を置き去りにするという苦渋の決断をしなければなりませんでした。国軍兵士はロヒンギャの女を殺した。私たちはそれを決して忘れません」

「妻を見ているのが辛い」

難民キャンプには海外の支援団体が運営する診療所があり、ヌールは仏医療援助団体「国境なき医師団(MSF)」で検査と治療を受けた。その結果、性感染症にも罹患せず、妊娠もしていないことがわかり安堵したという。

だがその後も彼女は原因不明の不正出血や頭痛、呼吸困難や身体の痛みに悩まされた。初めて会った当時は虐殺から10ヵ月が過ぎていたが、ヌールの表情は虚ろで、とても疲れているように見えた。

性暴力を受けた女性たちは、周囲の心ない反応にも苦しむ。彼女たちは「家族の恥」と見なされ、コミュニティで孤立することも少なくない。未婚の女性の場合は、結婚相手を見つけるのも難しくなる。被害を受けた女性たち自身も、家族や自分に批判が及ぶことを恐れ、辛い経験を自分の胸にしまい込みがちだ。被害者女性がさらに追いつめられるこの理不尽な状況をどう思うかとヌールに問うと、彼女ははっきりとこう言った。

「私たちは何も悪いことをしていません。罰せられるべきは加害者である国軍兵士やラカイン人です。なのになぜ私たちが、自分を恥じなければならないのでしょうか」

この発言を聞いて、もっと彼女の話を聞きたくなった。ロヒンギャのなかでもラカイン州北部に住む人たちは、特に保守的だと言われる。難民キャンプで出会った女性たちは故郷での壮絶な経験で深く傷ついていることもあり、自分の意見をはっきり言う人は少ない印象を持っていた。ところがヌールは、自分のコミュニティに盾突くようなことを毅然と言う。こんなロヒンギャ女性に会ったのは初めてだった。彼女はさらにこう続けた。

「私も最初は自分の身に起きたことを恥じて、声をあげられませんでした。でも、国軍によって私たちは愛する家族や故郷、その他の大切なものをすべて失いました。このままでは私たちは一生、難民キャンプに暮らさなければなりません。それなのに悪人は野放しのままなんておかしい。ロヒンギャに起きたことを多くの人に知ってほしいし、正義と公正さのために国際社会にも動いてほしい。だから今日、あなたに話そうと思ったんです」

体調の悪さから、当時のヌールは毎日ほとんど寝たきりの生活を送っていた。そんな彼女を支えたのが夫のモハマドだ。自身も国軍兵士に拷問された傷の治療のためにまだ診療所に通っているが、その一方で何もできない妻の代わりに食事を作り、3人の子どもたちの世話をしているという。モハマドは妻を助けられなかったと自分を責め、ときおり泣くのだとヌールは語った。

「私の身に起きたことのせいであなたを苦しめていたら申し訳ないと謝ると、私には何の罪もないのだから償いは必要ない、と夫は言ってくれました。彼はいまも私を大切にしてくれます」

ヌールに取材した後、外出中に豪雨に降られて外で足止めを食っていたモハマドに会いに行った。彼は屋根のある建設現場の足場にぽつんと座り、雨宿りをしていた。

ヌールが、あなたは献身的に妻を支えるよい夫だとほめていましたよ、と伝えるとモハマドは淡々と言った。

「私は妻を愛しているし、妻も私を尊敬してくれている。だから彼女を助けたい。ただそれだけです」

あの日、国軍兵士の拷問から何とか逃げられたモハマドは、村人から女たちが襲われたと聞き、必死にヌールを探したという。その脳裏には、凌辱された後の妻の姿が浮かんだようだった。

「妻は空き家で、倒れたまま意識を失っていました。ひどい重体で、私も子どもたちも彼女の姿を見て涙が止まりませんでした。妻はずっと痛い、死ぬと繰り返していて、本当に死んでしまうかと思いました」

ヌールが心配ですか? と問うと、彼は少し複雑な表情を浮かべた。

「もちろん心配です。でも、彼女が苦しんでいたとしても、何をすればいいのか私にはわからない。妻を救えるのは神だけです」

性暴力を受けた女性を責める人もいると聞きます──私のその言葉にモハマドの切れ長の眼がさらに不安定な色に揺らめいた。

「国軍兵士から暴力を受けたせいで、妻も私も体調が悪い。でも、私たちには子どもたちを育てる責任があります。私が妻を殴ったり、殺したりしたら、誰が子どもたちの世話をするのでしょう。私は妻に暴力を振るいたくない。でも妻を見ているのは辛いです」

そう言うと、モハマドは口をつぐんだ。次の言葉を待ったが、彼の意識は深い闇に沈んでしまったように見えた。降りしきる雨のなか、私たちはしばらくその場を動けなかった。

ヌールとモハマドはお互いを思い合いながらも、虐殺の記憶に悩まされている。その夫婦関係に心を揺さぶられ、帰国の前日、私はもう一度彼らに会いに行った。

また来たのかと煙たがられたらどうしようかと思ったが、ヌールもモハマドも意外なほど再訪を喜んでくれた。少し顔を見て帰るつもりだったが、昼食にチキンカレーまでごちそうになる。もてなしのために何とか食材を買う金を工面してくれたようで、ありがたさと申し訳なさで頭を下げっぱなしだった。それから私は2年にわたり彼らを訪ね続けた。

半年後の2018年12月に再びヌールたちに会いに行くと、その生活にはいくつもの変化が見られた。モハマドが支援団体の建設員の職を得たおかげで、生活の基盤が整いはじめていたのだ。部屋に入ると発電機につながれた扇風機があり、難民キャンプの蒸し暑さを和らげていた。

ヌールは前よりずいぶんと元気そうで、その日は化粧をしていた。深紅のアイシャドウと口紅が彼女の大きな瞳と褐色の肌にはえて、とてもきれいだ。体調はどうかと尋ねると、ヌールは「最近はよく眠れている」と答えた。

「アラカン(ラカイン州)ではいつ国軍兵士に襲われるかわからなくて、夜も眠れなかった。いまはその心配がないから、とてもリラックスできるの」

その日も昼食をごちそうになったが、前回よりも格段に味がよくなっていた。おいしいと伝えると、夫が働いているおかげで今日のカレーには干し魚を入れられたのだと嬉しそうにヌールは言った。定収入が得られるようになり、手に入る食材の種類も増えたのだろう。モハマドも難民キャンプでの生活に居心地のよさを感じているようだった。

「ここにいれば海外の団体が支援をしてくれるし、メディアも取材に来てくれる。君だって僕たちに会いに来られるけど、アラカンに戻ったらそれも難しくなるだろう」

この訪問の1ヵ月前の2018年11月、バングラデシュ政府はロヒンギャ難民の帰還事業を強行しようとしたが、帰還予定者が当日ひとりも姿を見せず、計画は中止に終わった。モハマドは故郷に対する心情をこう吐露した。

「アラカンを思い出さない日はないが、いま帰ってもまた国軍兵士に虐げられるだけだ。彼らが国際的な司法の場で制裁を受け、私たちが市民権を得られなければアラカンには戻れない。いまはまだ帰るときじゃない」

だが、この平穏な生活は長くは続かなかった。

半年後の2019年7月の訪問時、ヌールは甲状腺の病気を患い、喉に赤ん坊の拳ほどの腫瘍ができていた。手術が必要だが、その費用は6万タカ(約8万4000円)もかかると医者に言われたという。難民にとっては法外な額だが、これに追い打ちをかけるようにモハマドは失業していた。

もともと不安定な難民の生活は、些細な外的・内的変化に大きな影響を受ける。ヌールたちの生活基盤は脆くも崩れかけていた。帰り際に私もわずかばかりの寄付をしたが、ヌールが手術を受けられるか気がかりだった。

その後、難民キャンプの状況は悪化の一途をたどる。バングラデシュでは、膨大な数の難民を受け入れたことによる住環境の悪化などを理由に、ロヒンギャに対する風当たりが強くなっていた。2019年8月、バングラデシュ政府は再び帰還を推し進めようとしたが、またもや希望者が現れず、事業は頓挫した。

しびれを切らしたバングラデシュは、キャンプが人身取り引きやヤバと呼ばれるメタンフェタミン系の麻薬の密売組織の隠れ蓑になっているとして、統制を強化していく。

キャンプ内のインターネットは遮断され、難民へのSIMカードの販売が禁止された。祝宴や結婚式といった集会も制限され、キャンプの周りには鉄条網のついた柵が設けられた。移動の自由を失ったロヒンギャたちはそれまで生業にしていた日雇い労働の機会を失い、困窮していく。

2020年1月にキャンプを訪れたときには、ヌールやモハマドの心境は一変していた。モハマドはこう語った。

「かつて難民キャンプには自由があったが、いまはバングラデシュの締め付けが厳しい。家族を養うために働くこともできないし、治安が悪化しているせいで安心して暮らせない。ほんの1年前までキャンプには生きるために必要なものがそろっていたが、すべて消えた。いまはアラカンに帰りたくて仕方がない」

いまでも国軍兵士を殺したい

この5ヵ月前の2019年8月、私はミャンマー政府が主催するメディア向けの取材ツアーに参加し、ヌールたちの故郷ラカイン州北部を訪ねていた。そのときに撮影した写真を見せると、ヌールとモハマドの眼が吸い寄せられる。街の中心に立つ時計塔、食材や日用品があふれる市場、学校に集う子どもたち……2人は「ここによく行っていた」「懐かしい」と呟きながら、スマホの画面に映る写真を凝視した。彼らの表情や言葉は故郷の現状を見る喜びと、そこに戻れないやるせなさに満ちていた。

筆者がラカイン州北部で撮影してきた写真を見つめるモハマド。2020年1月撮影

モハマドは「無事にアラカンに帰れたら、君が僕たちの村に来られるよう許可書を申請するよ」と言ってくれた。ヌールには別れ際、今度はいつ来るのかと尋ねられた。

「あなたは私のお姉さんみたいなものだから、会えないと寂しい。今度は家族も連れてきてね。うんとごちそうするから」

また半年後に来るよ、と約束して別れた。だが、この訪問の後、バングラデシュでも新型コロナが猛威を振るう。さらにギャンググループの抗争、大火災、難民の離島への強制移住の開始といった悪いニュースが相次ぎ、2021年2月には祖国ミャンマーで軍事クーデターが発生。現地の政情不安によって、ロヒンギャ難民の帰還はさらに遠のいている。

コロナで現地へ行くのが難しくなったこの2年半、私は通訳を介してヌールとモハマドと連絡をとっている。ヌールはさいわい喉の手術を受けられた。だが、モハマドがその費用を工面するためにヤバの密売に手を出したらしいと通訳から聞き、がく然とした。愛する妻を救うにはそれしか方法がなかったのだろうが、バングラデシュでは薬物密売の容疑者に対する超法規的な処刑が横行しているのだ。

ヌールは術後も通院と服薬を続けなければならず、相変わらず体調は悪いという。幼かった3人の子どもたちは10代になったが、キャンプでは高等教育の機会がないと、ヌールはいつも彼らの将来を案じている。

虐殺から5年たったいまも、モハマドは「ヌールと自分を傷つけた国軍兵士を殺したいと思うことがある」と語る。一方、ヌールには頭から離れない「問い」がある。

「なぜ、国軍兵士やラカイン人は何の罪も犯していない私たちにあんなひどいことをしたのか、それを聞きたい。そしてこう伝えたい。お願いだから、もう私たちを傷つけるのはやめて。私たちもミャンマー市民なのだから」

ロヒンギャ差別に加担する日本政府

ヌールやモハマドの境遇に、日本も決して無関係ではない。1941年に太平洋戦争が始まると、日本は英国の統治下にあったビルマ(当時)に侵攻し、ラカイン州にもその勢力を広げた。現地で日本軍が仏教徒中心の民兵を組織する一方、英軍はイスラム教徒のゲリラ部隊を編成して偵察や諜報活動に当たらせる。

すると両者の敵対感情はしだいに高まり、お互いの宗教施設を破壊し、住民を殺し合う熾烈な戦闘を繰り広げた。この歴史はイスラム教徒に反感を持つラカイン人の間でいまも語り継がれ、ロヒンギャへの迫害を正当化する根拠のひとつになっている。

さらに日本政府は、現在もロヒンギャ差別に加担する。国連でロヒンギャ問題を巡る決議が採択されるたびに、日本は棄権に回った。中国をけん制するためにミャンマー政府に配慮したと見られるが、その不誠実な対応は国内外から非難されている。

最近では、ミャンマー軍政が設置した統治機関「国家行政評議会」に安倍晋三元首相の国葬を通知。9月27日には、ロヒンギャだけでなくミャンマー市民を弾圧する国軍の関係者が葬儀に参列するかもしれない。

在日ミャンマー人も、友好国だと思っていた日本の裏切りに失望を隠せない。自国の政府が人道に外れた行為をするたびに、私の頭には難民キャンプで5年前の記憶に苦しむヌールとモハマドの姿が浮かぶ。


取材・文・撮影/増保千尋

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