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「いい経験でしたよ、決していい思い出ではないけどね」五十嵐亮太が語った“メジャーリーグでの3年間”

日刊SPA! / 2024年2月26日 8時53分

「2年目を終えて、メッツをやめたときに日本から数球団のオファーがありました。でも、そのまま日本に帰るのはちょっと空しい。もっとやり切りたいという思いがあったので、アメリカに残りました」

この時点で五十嵐は腹をくくった。たとえどんな結果になろうとも、「この1年を徹底的にやり切る」と決めたのだ。

「せっかくアメリカに来たからには、日本に戻る前にすべてのものを見よう。すべての経験をしよう。そう心に決めました」

◆再度の40人枠外に、「他球団を探してほしい」

勝負の3年目。スプリングキャンプ後、またしても40人枠から外れた。

「この年は変にアメリカナイズされていたというのか、自分の意思はしっかり伝えようと決めていたので、すぐに代理人に『他球団を探してほしい』と直訴しました。その結果、トロント(・ブルージェイズ)への移籍が決まりました」

ブルージェイズでは2試合に登板したものの、すぐにマイナーに降格する。

「このときも、代理人に『マイナーに行くなら、リリースしてほしい』と言い、チームを去ることを決めました」

すでにシーズンは開幕している。どこからもオファーがない可能性もあった。それでも、「何もせずに後悔したくない」と自ら退団し、新たな球団のオファーを待つ選択をする。

「すると、すぐに(ニューヨーク・)ヤンキースからオファーが来ました。クローザーの(マリアノ・)リベラが故障して、中継ぎ陣が手薄になったことで声がかかったんです」

◆幕を閉じたアメリカ生活「苦しかったけれども…」

しかし、ここでも出番を与えられることはなかった。ヤンキース時代には2試合に登板した。古巣メッツとの「サブウェイシリーズ」では、先発・黒田博樹の後を受け、チームに勝利をもたらしたこともある。

「ヤンキースではほとんど出番がなかったけど、イチローさんも黒田さんもいたし、球場に行けばスター選手のデレク・ジーターにロビンソン・カノもいた。ほぼマイナー生活でしたけど、とても充実していた時期でした」

野球には真摯に取り組み続けた。このヤンキース時代に新球・ナックルカーブを習得する。持ち球のカーブに改良を加え、人さし指を立てるように投じることで、落差の大きいカーブをものにしたのだ。

こうして、五十嵐にとってのアメリカ生活は幕を閉じた。やるだけのことはやり切った。そんな自負があった。

「正直、3年目のシーズン途中に日本に帰ることもできました。けれども、最後までやり切った。僕にとっては苦しかったけれども、大切なのはその経験を後の人生に繫げること。そうでなければ、あの3年間の意味がなくなってしまうから」

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