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福永祐一調教師が振り返る「巨大なプレッシャーが襲いかかった‟あのダービー”」

日刊SPA! / 2024年5月26日 8時25分

 ウワーッと沸いているスタンド前を先頭で走りながら、まるで他人事のように「盛り上がってるなぁ」なんて思っていたのだから、完全にどうかしていた。そのまま体に力が入っていないような状態でフワーッと進んで行き、迎えた最後の4コーナー。

 直線に向いたところで、後続に一気に飲み込まれた。

 我に返ったのは、そのときだった。

「大変なことをしてしまった……」

 直線はズルズルと下がっていきながら、「このまま帰るわけにはいかない。坂口先生に合わせる顔がない。いっそのこと落馬してしまおうか」なんて、あってはならないことを本気で考えていた。

 結局、勝ったスペシャルウィークから遅れること2・6秒、14着でゴール。惨敗だった。

 検量室前に引き上げていくと、そこに坂口先生の姿はなかった。その事実が何より先生の心境を物語っているように感じて、厩務員さんに「すみません……」と謝るのが精一杯。その後、何度かそのときの映像を見たが、顔面蒼白とはこういうことを言うのだと思うくらい、自分の顔は真っ白だった。

 呆然自失となった自分は、マスコミの前に出ていく勇気もなく、ジョッキールームに引きこもった。すると四位さんがやってきて、「祐一、記者の人たちが待ってるから。ちゃんと喋ってこい」と優しく声をかけてくれた。

「わかりました」と答え、おぼつかない足取りで記者たちの前へ。消え入りそうな声でインタビューに答えた気がするが、何を話したのかは覚えていない。

 今はもちろん、当時も、デビュー3年目の若手がダービーで2番人気の馬に乗るなんて異例中の異例だった。それでも、マスコミの取材に対し、オーナーの浅川吉男さんと坂口先生は「福永洋一が勝てなかったダービーに、息子で挑む夢があってもいいじゃないですか」と答え、その手綱を自分に託してくれた。

 その思いに応えるどころか、完全に緊張に飲まれ、暴走という最悪の結果に──。

 あのダービーを思い出すと、今でもいたたまれない気持ちになる。なぜなら、浅川オーナーにとって、所有馬をダービーに送り出したのはキングヘイローが最初で最後。そして坂口先生にとっても、結果的にあれが最後のダービーになってしまったのだから──。

 結局、恩返しができないまま、浅川オーナーは亡くなり、坂口先生も2011年に引退。浅川オーナーの生産馬と所有馬は息子である昌彦さんが継がれたものの、今度は自分が引退してしまった。御恩を返せなかったという心の痛みは、生涯消えることはないだろう。

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