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口内炎と思いきや「舌がん」ステージ4。人気ヒップホップMCの“その後”「人生が暗転したような気分だった」

日刊SPA! / 2024年10月21日 8時54分

転機になったのは、1992年にビースティ・ボーイズが大阪と東京でライブ公演を行った際に、M.C. BOOさんがラップのフリースタイル(即興)に呼ばれたことだった。

飛び入りでラップに参加したつもりが、ビースティ・ボーイズのメンバーに深く気に入られたことで、ライブの半年後にアメリカの大手レーベル「キャピトル・レコード」からM.C. BOOさんのフリースタイルが収録されたレコードが発売されたのである。

「メジャー・フォース(日本初のクラブミュージック・レーベル)を設立した高木 完さんのもとに、ビースティ・ボーイズからレコードやテープのサンプル音源が届いたんです。そしたら、『これ、BOOのラップ入ってない?』という話になって。どうやらサンプルだなと思っていたら、いつの間にか世界デビューしていたんですよ」

それ以来、日本国内のライブはもとより、Run-D.M.C.やDe La Soul、Digital Undergroundといった海外アーティストのフロントアクトの仕事が多く舞い込むようになった。

「その頃はすでに『スチャダラパー』が売れていた時期でしたが、来日するミュージシャンの関西のフロントアクトは、僕たちが結成した『脱線3』がほとんど務めていたんですよ。そんな折に、高木さんから『メジャーフォースで1stアルバム出そう』と誘われて、1994年に発表しました。

プロデュースは高木 完さんとスチャダラパーのshincoさん。当時のキャッチフレーズは“西のスチャダラパー”という風に売り出してましたね。おかげさまでCDもたくさん売れて、その後はEPICソニーと契約してメジャーデビューすることになったんです」

◆海外でのレコーディング経験が大きな自信に

そして、2stアルバムはビースティ・ボーイズの活動拠点だったLAの「G-SON STUDIOS」でレコーディングを実施することに。ビースティ・ボーイズのメンバーと共に楽曲制作を行い、1995年に2stアルバム『XXX JAPAN』をリリースした。

脱線3の活躍は目覚ましく、お笑い芸人が所属する吉本興業の音楽部門初のアーティストとして契約を結んだ。

ビースティ・ボーイズとのエピソードについて、M.C. BOOさんに伺うと「同じカルチャーの中で意気投合し、お互いをリスペクトすることができた」と話す。

「今だと外タレが東京に来たら、渋谷や原宿に行くのが一般的になっていますが、実はビースティ・ボーイズが最初だったと思います。僕らの仲間内がやっている渋谷のレコード屋やスニーカーショップを案内したり、秋葉原の面白い場所へ連れて行ったりと、一緒に東京観光したんです。

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