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二輪事業は“世界シェアトップ”だからこそ…ホンダが“メリットの少ない”「日産との経営統合」を進めた先にある未来

日刊SPA! / 2025年1月18日 8時48分

二輪事業は“世界シェアトップ”だからこそ…ホンダが“メリットの少ない”「日産との経営統合」を進めた先にある未来

yu_photo - stock.adobe.com

 経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。
 さて、今回は本田技研工業株式会社(以下、ホンダ)の歴史について紹介したいと思います。

 本田宗一郎氏が創業したホンダは戦後、オートバイメーカーとして台頭し、60年代から四輪車市場に参入しました。ヤマハとの「HY戦争」に勝つと、二輪ではシェアトップを独走し、現在も首位の座を維持しています。四輪では90年代にヒット車を次々に生み出し、低調な日産をよそに存在感を示してきました。将来的には日産との経営統合を進める方針ですが、事実上、時価総額で大幅に上回るホンダが主導する形です。ホンダの歴史と近年の動きについて、振り返りたいと思います。

◆ヤマハとの間で勃発した「HY戦争」

 ホンダを設立した本田宗一郎氏は戦前、自動車修理工場を営んでいました。競合が増えたため、1938年にエンジン部品メーカーを設立し、トヨタへの納品を始めました。戦後の1946年に旧本田技術研究所を設立。47年に発売した原付「ホンダA型」はヒット商品となりました。1949年に「ドリーム号D型」、58年に「スーパーカブ」を発売し、当時から世界的二輪メーカーとしての地位を確立しました。

 四輪事業に参入したのは1962年以降です。64年には早くもF1に初参戦。69年に同社初の小型自動車「1300」を、72年には「シビック」を発売しました。

 1979~83年の間、ヤマハとの間で熾烈な「HY戦争」が起きました。当時、二輪で既にシェアトップだったホンダに対し、ヤマハは女性受けを狙ったスクーターの投入や価格競争でホンダのシェアを奪おうとしたのです。しかしホンダの優位性は変わらず、ヤマハの過剰在庫と業績難でHY戦争は終結しました。ちなみに本田宗一郎氏は83年に取締役を退いています。

◆海外拠点を拡充し、90年代は四輪でヒット車続々

 日本国内における二輪の販売台数は82年の329万台をピークに減少が続き、現在では僅か40万台しかありません。所得増加による車へのシフトや公共交通機関の整備、交通事故への忌避が二輪離れの主な要因です。しかし世界では二輪市場の拡大が続き、ホンダは国内外で生産拠点を拡充しました。近年の二輪販売台数は年間約6,000万台。うち3分の1をホンダが占めます。

 なおホンダは80年代以降、四輪でも頭角を現すようになりました。F1では好成績を収め、1990年にはスポーツカー「NSX」を発売しました。90年代、日産はヒット車を生み出せず苦戦しましたが、ホンダは「オデッセイ」や「CV-R」、「ステップワゴン」などのヒット車を次々に投入しました。99年には初のハイブリッド車「インサイト」を発売しています。

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