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「25歳で武道館を借りてディスコに」「素人なのに“帯のラジオ番組”DJに」乱一世74歳の“波乱に満ちた”半生

日刊SPA! / 2025年2月3日 8時54分

◆25歳で日本武道館を貸し切ってディスコに

ーー運が良かったですね。

乱:とは言っても持ち出し(※多くかかった分の費用は自分が負担すること)だったので、程なくして尻に火がついて。

そんなとき、知人から東京で「カンタベリー・ハウス」(※新宿で隆盛を誇ったディスコチェーン)やレストランを15、6軒やってる社長が人を欲しがっているから行ってみない?と誘われて。そこの本社の芸能部に入ったんですが、要はフィリピンバンドの世話係でした。

当時の大箱のディスコはフィリピンと日本のバンドが交互に生演奏するシステムが主流でしたが、素行不良だったりドタキャンしたりが当たり前のようにあった。

そこで僕は会社に「効率が悪いからレコードにしましょう」と提案し、その流れがやがて六本木、赤坂と広がって行ったんです。

ーー当時のディスコのシステムを乱さんが変えたんですか?

乱:そんな大袈裟なものではないですよ。バンドからレコードへ変わるのは極めて自然な流れだったと思います。

おかげでフィリピンバンドの呼び屋さんからは相当なプレッシャーをかけられましたけど。それでちょっといい気になって(笑)、次の年に日本武道館を貸し切って巨大なディスコにしたこともありました。1975年、25歳くらいのことです。

◆素人がいきなり“ラジオの帯番組”を任された

ーーそこから次はどの道へ?

乱:結局その会社も1年ほどで辞めて、イベントを通じて知り合ったニッポン放送の仲のいい営業から「暇なら遊びに来てください」と言われて。

行ったら上野修というプロデューサーがいて「これからどうするの?」「趣味は?」なんて聞かれるままに話してたら「来月からうちでしゃべって」と。

ーーいきなりですね。しかもノリが軽い。

乱:それが平凡パンチ提供の『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』という番組です。

上野さんは伝説のプロデューサーで、夜な夜なヒッピーが集まって酒を飲んでいた新宿アルタ前に行って、ロングヘアーのカツラをわざわざ被って彼らと仲間になりに行くような人で。

ーーその番組は週1回の出演とか?

乱:いえ、月~金の帯(笑)。15分番組のうち、曲やCMを除くとしゃべりはだいたい7分くらい。でも、夜の7時にラジオ局に入って収録を始めて、でてくるのが朝の4時とか。

ーーどうしてそんなに時間がかかるんですか。

乱:まず「みなさん、こんばんわ」って言ったら、すぐさま上野さんが「はいダメ」と。でも答えを教えてくれない。自分で探せ、と。困っていると「ラジオは『みなさん』で聴くか?『あなた』なんだよ」と。そういう教育を現場で受けましたね。

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