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幻と消えた「手賀沼ディズニーランド」計画。なぜ“常磐線の我孫子駅”近くの“日本一水が汚い湖沼”に誘致しようとしたのか

日刊SPA! / 2025年2月3日 8時52分

◆別荘地として開発されていった我孫子

農村然としていた我孫子ですが、明治時代に変化を求められる大きな波が押し寄せていました。明治29(1896)年に日本鉄道(現・JR東日本)が駅を開設したのです。これにより、上野駅から我孫子駅までが一本の線路でつながり、東京からのアクセスが向上します。これを機に、東京近郊の景勝地として着目されて我孫子が別荘地として開発されていくのです。

別荘地開発の端緒を切り開いたのは、日本柔道の父と知られる嘉納治五郎です。嘉納は我孫子に農園を開き、嘉納後楽園と命名しました。柔道の総本山でもある講道館が東京都文京区後楽園に立地していることを踏まえると、嘉納が開いた農園は文京区の地名に由来していると推測できます。

その後、嘉納の甥だった柳宗悦が手賀沼湖畔に転居してきます。民芸運動の父と称され、美術家でもあった柳を慕うように手賀沼湖畔には文人の志賀直哉や武者小路実篤などが邸宅や別邸を構えていきました。

◆「静かな別荘地」の開発計画は昭和30年代ごろに

手賀沼湖畔に集まったのは主に白樺派と呼ばれる文人・美術家でしたが、世間に我孫子を別荘地として広めたのは朝日新聞記者の杉村楚人冠です。杉村は手賀沼湖畔に別邸を所有していましたが、関東大震災で東京が壊滅的な被害を出したことで手賀沼へと移住してきました。居住するようになった杉村は、手賀沼に関する記事を書き続けます。これらの記事が、手賀沼を全国区の別荘地へと押し上げることになったのです。

しかし、戦前までの手賀沼湖畔はあくまでも静かな別荘地でした。そうした静謐な手賀沼を開発しようという機運は、昭和30年代から芽生えます。当初、湖を活用して競艇場を建設することが考えられていましたが、競艇場は手賀沼を埋め立てなければならなかったので計画は頓挫しました。

それでも手賀沼を開発するという方向性は変更されることがなく、新たに手賀沼にディズニーランドを開園させようという計画が浮上しました。

ディズニーランドへの計画変更は、決して突拍子もない話だったわけではありません。手賀沼ディズニーランドの計画を主導した川崎千春は京成電鉄で専務取締役を務めていました。当時の京成は沿線開発の一環としてバラ園の整備に力を入れていました。

川崎はバラの買い付けをするためにアメリカへと渡り、そこでディズニーに出会います。川崎は現地でディズニーの思想に感銘を受け、帰国後に誘致へと動き出したのです。これが手賀沼湖畔へディズニーランドを建設する動きへと発展していきます。

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