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幻と消えた「手賀沼ディズニーランド」計画。なぜ“常磐線の我孫子駅”近くの“日本一水が汚い湖沼”に誘致しようとしたのか

日刊SPA! / 2025年2月3日 8時52分

◆思うように進まず、手賀沼から浦安へ

川崎を中心にした手賀沼ディズニーランド計画は、テーマパークを運営する法人として全日本観光開発が設立されたことで本格化していきます。同社は前東京都知事の安井誠一郎を会長に、東京都競馬会長だった米本卯吉を社長に迎えています。

そのほか東武鉄道や後楽園スタヂアムなどが出資していました。現在の京成は千葉県市川市に本社を置いていますが、当時は東京都台東区に本社を構えています。地元の千葉県も同社に出資していましたが、資本関係から見れば明らかなように手賀沼ディズニーランドは東京の政財界が主導したプロジェクトだったのです。

しかし、手賀沼ディズニーランドは思うように進まず、そのまま計画は中断。川崎は途中から手賀沼湖畔ではなく、浦安沖にも食指を伸ばしていきます。理由は、浦安沖で広大な埋立地が計画されていたからです。その埋立地にディズニーランドをつくろうとしたわけです。

◆関東大震災がきっかけだった東京湾の開発計画

浦安沖の埋め立ては、千葉県が推進する東京湾の開発計画にも合致していました。千葉県が東京湾を開発していこうと考えた出発点は関東大震災でした。関東大震災で東京は壊滅状態になり、陸軍は東京に集中していた軍事力を分散する必要性を痛感するのです。

陸軍は軍事力を分散することで災害に備えようとしたわけですが、他方で軍事力を分散してしまうと、東京が攻撃されたときに対応できません。そこで、軍部は近隣の千葉に着目したのです。千葉市なら災害のリスクヘッジができ、しかも東京が攻撃されても即座に駆けつけることができます。こうして大正末から昭和初期にかけて、千葉市一帯は軍都と化していきます。

政府は千葉市を軍都として発展させるべく、昭和15(1940)年に東京湾臨海工業地帯計画を作成。同計画に沿って、千葉市沖に埋立地を造成していくことになりました。同事業は戦争により約200ヘクタールが完了した時点で中断しますが、埋立地の造成は千葉市の発展に寄与すると考えられていたことから、戦後は計画を拡大して埋立地の整備が進められていきました。

昭和25(1950)年に千葉県知事に就任した柴田等は、千葉市の埋立地に川崎製鉄(現・JFEスチール)の工場を誘致します。これが京葉臨海工業地帯の第一歩になりますが、柴田は千葉県を農業県にすると考えていました。そのため、それ以上の工場誘致を進めることはありませんでした。

<TEXT/小川裕夫>

【小川裕夫】
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーに。首相官邸で実施される首相会見にはフリーランスで唯一のカメラマンとしても参加し、官邸への出入りは10年超。著書に『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)などがある Twitter:@ogawahiro

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