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神港学園野球部 北原直也監督と父光広氏 鎮魂の思いは父から子、監督から令和の球児へ

スポニチアネックス / 2025年1月17日 5時2分

「阪神淡路大震災1・17のつどい」設営ボランティアに参加した神港学園野球部と神戸高校などの生徒たち(撮影・中辻 颯太)

 6434人が亡くなり、3人が行方不明となった1995年の阪神大震災は、きょう17日に発生から30年を迎えた。被災直後に開催された第67回選抜高校野球大会で8強入りした神港学園(兵庫)の硬式野球部は、「阪神淡路大震災1・17のつどい」に2003年から設営ボランティアとして参加する。北原直也監督は、選抜出場時に監督だった光広氏の長男。父が始めた活動を息子が引き継ぎ、令和の高校球児に鎮魂の思いをつなぐ。

 震災当時に中3だった北原直也監督は、神港学園の監督として選手の安否確認に奔走する父・光広氏の姿を忘れない。「部員全員が無事と分かるまでに2週間以上かかっていました。選抜目前でも練習ができず、ボランティアしかできない。その姿をずっと見ていました」。被災直後の選抜には兵庫から3校が出場し、神港学園は8強進出。球児の懸命な姿は、テレビ放送などを通じて被災者を勇気づけた。

 あれから30年がたった。父・光広氏は17年で監督を退き、長男の北原直也監督が18年から同校を率いる。父の苦労を知る息子として、必ず引き継ぐと決めた活動がある。震災の追悼の思いなどを込め、神戸市内で開かれる「1・17のつどい」の設営ボランティアだ。父の発案で03年から部員が竹灯籠の設置などを手伝い、23年目の今年は部員全50人で参加した。

 「もし僕が活動を止めれば、部員が震災の話に触れる機会はないと思う。この活動だけは大事にしたかった」

 ある年、部員のつくった雪地蔵に手を合わせて涙を流す人がいた。震災で失った最愛の人を思ってのことだろう。その姿を見た部員は「もっと気持ちを込めてつくればよかった」と吐露した。震災時に生まれていなかった球児は、ボランティアを通じて鎮魂の思いを受け取ってきたのだ。

 主将の衣笠善(2年、写真)の父・純さんは、95年選抜に背番号14を背負って出場。普段は寡黙な父も震災のことは細かく教えてくれた。「震災で大切な人を亡くした方の気持ちは分からないけれど、ここに来れば伝わるものがありました」と学んで帰った。

 北原監督は黙々と作業する選手を見つめていた。「神港学園野球部として参加することに意味がある。感じた思いを後ろへ後ろへと次の世代につないでいってほしい」。被災地の思いは30年間途絶えず受け継がれ、令和の球児にまで確かに届いた。 (河合 洋介)

 ◇北原 直也(きたはら・なおや)1979年(昭54)11月12日生まれ、兵庫県高砂市出身の45歳。神港学園では高2夏に正捕手として甲子園出場。法大を経てJR西日本に入社。現役引退後は神港学園でコーチ、部長を務めて18年春に監督就任。神港学園で春夏8度の甲子園出場に導いた北原光広監督の長男。

 ▽阪神大震災 95年1月17日の午前5時46分、淡路島北部の明石海峡を震源にマグニチュード7・3の地震が発生。最大震度7を記録し、兵庫県神戸市、西宮市など甚大な被害に見舞われた。大阪府などと合わせた死者は6434人。全壊した建物は約10万5000棟で鉄道や道路、電気、水道、ガスなどのライフラインも寸断された。11年に東日本大震災が発生するまで、戦後最悪の自然災害だった。

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