「0秒01差」で分かれる天国と地獄 プールの底しか見えない、単調な水泳の練習から育まれる人生の強さ――競泳・坂井聖人
THE ANSWER / 2024年8月4日 13時34分
■「シン・オリンピックのミカタ」#56 連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」第5回
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
今回は連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、少子化が進む中で求められるスポーツ普及を考え、それぞれ打ち込んできた競技が教育や人格形成においてもたらすものを語る。第4回は、2016年リオデジャネイロ五輪の競泳男子200メートルバタフライで銀メダルを獲得した坂井聖人。0秒01の差で天国と地獄を味わってきたスイマーは、記録と戦い続ける日々を過ごしてきたことで、第二の人生においても大切な強さを得ることができたと振り返る。(取材・文=牧野 豊)
◇ ◇ ◇
8年前の2016年、リオデジャネイロ五輪の競泳男子200メートルバタフライで銀メダルを獲得した坂井聖人。決勝レースの残り50メートルでは見事なラストスパートを見せ、オリンピック史上最多の通算23個の金メダルを手にした「怪物」マイケル・フェルプス(米国)を追い詰めた。金メダルにわずか0秒04まで迫った泳ぎは、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
坂井は、今年5月に現役引退を表明した。
福岡のKSG柳川で2歳から水泳を始め、小学校から競泳選手として活動。中学、高校と国内トップクラスのバタフライスイマーとなり、早稲田大学3年時に五輪のメダリストになった。その後は肩の怪我などもあり、世界の頂点を争うステージに戻ることはできなかったが、28歳で引退するまで水のなかで過ごしてきた。
坂井に今、改めて競泳を通して学んだこと、自分が成長できたことを問うと、「実は」と微笑しながら答え始めた。
「昔、自分はやんちゃなほうでして(笑)。家でもプールでも、学校でも怒られているような子どもでした。水泳を2歳で始め、小学生で選手コースに入ったと言っても、多くの人と同じように習い事の1つとしか思っていなかったんです。でも、水泳で少しずつ結果が出てくると次の目標が出てくる。その目標を達成するためには、自然と厳しい練習に向かっていくようになるわけです。
おそらく選手コースに移った最初のほうは、やる気のなさそうな態度で泳いでいたと思いますよ(笑)。それでコーチにめちゃくちゃ怒られる。でも、やんちゃなんだけど、怒られることは嫌じゃないですか。だから、自然と更生して、選手としても成長していったのだと思います(笑)」
■プールでの単調な日々で磨かれた粘り強さ
競泳は記録の競技である。五輪のメダルであったり、全国大会出場などの目標はあっても、基本は自分を超えていくこと、つまり自己ベストの更新が目標のベースにある。記録という絶対的な指標がある以上シビアなスポーツである側面も強いだけに、自己ベストが出た時の達成感は格別だという。
「めちゃくちゃ嬉しいですよ。仮にそれが0秒01の更新でも、です。日常生活でのモチベーションも全然、変わってきます。楽しく毎日が過ごせる。もちろんその逆もあって、代表選考会で0秒01差、本当に指先くらいの差で負けた時は、しばらくは絶望とも言える時間になるんですね。僕の場合、そういう時は好きなサウナに行って無の状態になって気持ちを切り替えていましたが、そういう意味では過酷な競技だったなと、引退後に感じるようになりました。
僕は競争が好きでした。争っている自分が好きで、負けず嫌い。もがき苦しみながらも頑張るというのも好きです。だからリオ五輪後に厳しい状況が続いていた時でも、第二の人生もそういうことがあるから、それなら今のほうが大したことないだろうと思って競技を続けていました」
結果はすべて、選手に返ってくる。陸上競技も似た競技性だが、ある競泳の五輪メダリストの言葉を借りれば、「競泳はプールの底しか見えない環境で、ひたすらきつい練習をする特殊な競技」でもある。
坂井はその見解に同意しつつ、「ただ、自分は……」と競泳選手としての誇りを込めて、違う視点で競技を捉えている。
「プールの底は、どこに行っても同じようなものですが、それを言ったら車の運転も、トレッドミルで走る時も景色は変わらないと思います。ただ確かに、単調なことをこなす粘り強さは身につくと思います。
自分も競泳関係以外の知り合いから、『見ていて変化が感じにくいので、面白みがよく分からない』ということを言われたことがあります。でも、選手は目標に向かって努力して取り組んでいるので、その部分を見てほしいと思います」
もっとも個人競技とはいえ、ひとりで強くなることは難しいもの。練習では同じレベル、同じ志を持つ仲間がいれば、互いに切磋琢磨し、個々がレベルアップしていくことができる。
「サッカーや野球などのチームワークとは異なりますが、個人競技なりに高め合う部分があります。例えば、同じグループでもバタフライの速い選手、クロールの速い選手同士で争ったりするんです」
大学進学の際、坂井が早稲田大学を選んだのは個人メドレーと200メートルバタフライで、世界大会で活躍していた瀬戸大也の存在が大きかった。また、早大には瀬戸のみならず先輩に中村克(自由形)、坂井の1年後に入学する渡辺一平(平泳ぎ)とリオ五輪にともに出場する選手たちがいた。種目は違えど、五輪の舞台や世界トップレベルを目指す意識の高い選手に囲まれた環境は、坂井にとって大きな刺激となり、その成長をさらに加速させた。
「本当に最高の環境でした。瀬戸さんとはずっと一緒に練習していたわけではないですが、意識の高い選手が周りに多くいたので、それぞれが互いに高め合い、自分も成長できたと思います」
引退後に地元・福岡に戻った坂井。今後は水泳のパーソナルコーチとして自身の経験を伝えていく予定だ【写真:本人提供】
■未来を担う子どもたちに伝えたい水泳の楽しさ
坂井は現在、故郷・福岡に戻り、第二の人生を歩み始める準備を進めている。具体的に検討しているのは、水泳のパーソナルコーチとして、選手としての経験をもとに伝えていくことである。
「子どもからマスターズの方々までを対象に、個々の目的にあったレッスンを展開できればと考えています」
パーソナルコーチとは、公共プールや関連のあるスイミングクラブのレーンを借りてレッスンを行う指導者のこと。インスタグラムなどのSNSを利用して告知し、生徒を募る。坂井は泳げない子どもから、ある程度競技者を目指すレベルの人まで、「個別だから、それぞれの目標に合わせた指導ができる」と考えている。
特に、これからの未来を担う子どもたちには、より水泳に親しんでほしいとの思いを抱いている。それは五輪メダリストのイメージとは異なる、幼少期の経験に起因する部分がある。
「競泳って試合に出るレベル、いわゆる選手コースにならないと、なかなかその楽しさが伝わりづらい競技じゃないですか。なので、まずはその前の段階で水に浸る、水で遊ぶ機会を増やしていくことが大切だと思います。小さい滑り台とか、浮き輪を使った遊びとか、コーチに手を持ってもらってバタ足をやったり。
というのも、僕自身、実は水が大嫌いだったんです。ちゃんと水に顔をつけることもできなかったくらいで、小さい頃の自分は、まさか競泳選手になるなんて思ってもみなかったです。それがある時、レッスンの後の水遊びみたいな時間帯で、ふと水に顔をつけられるようになった。そこから水で遊ぶことが楽しくなり、泳ぎに対して興味を持っていくようになった。お風呂ではなく、やっぱりそれをプールで経験してもらいたいと思います」
まずは、水に顔をつけることから。坂井は、自身の原点を子どもたちに伝えていく。
■坂井 聖人 / Masato Sakai
1995年6月6日生まれ、福岡県出身。地元の柳川スイミングクラブで幼少期から泳ぎ、小学6年生からバタフライを主戦場とした。中学時代から全国の舞台で頭角を現すと、インターハイでは高校1年で男子100メートルバタフライ、高校3年で男子200メートルバタフライを制した。卒業後は早稲田大に進学すると、21歳で迎えた2016年リオデジャネイロ五輪に出場。男子200メートルバタフライ決勝で驚異的な追い上げを見せ、怪物マイケル・フェルプスに0秒04差に迫る銀メダルを獲得した。その後は肩の怪我にも悩まされ、東京五輪、パリ五輪の代表に入れず。今年5月に現役引退を発表した。(牧野 豊 / Yutaka Makino)
牧野 豊
1970年、東京・神田生まれ。上智大卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。複数の専門誌に携わった後、「NBA新世紀」「スイミング・マガジン」「陸上競技マガジン」等5誌の編集長を歴任。NFLスーパーボウル、NBAファイナル、アジア大会、各競技の世界選手権のほか、2012年ロンドン、21年東京と夏季五輪2大会を現地取材。22年9月に退社し、現在はフリーランスのスポーツ専門編集者&ライターとして活動中。
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