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怪物フェルプスに0秒04差に迫った大学生の今 右肩がへこみ、怪我との闘い…アパレルの世界に描く夢――競泳・坂井聖人

THE ANSWER / 2024年8月4日 13時33分

マイケル・フェルプス(中央)に0秒04差に迫り、リオ五輪銀メダルを獲得した坂井聖人(左)【写真:Getty Images】

■「シン・オリンピックのミカタ」#55 連載「あのオリンピック選手は今」第1回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第1回は、2016年リオデジャネイロ五輪の競泳男子200メートルバタフライで銀メダルを獲得した坂井聖人だ。21歳で初めて出場した五輪の大舞台で、金メダルにわずか0秒04に迫る泳ぎを見せてインパクトを残したが、その後は怪我に悩まされたことでキャリアは暗転する。栄光と挫折を知るスイマーが、今年5月に現役引退を決断するまでの日々を追った。(取材・文=牧野 豊)

 ◇ ◇ ◇

 スイマーにとって、0.04秒とはどれほどのものなのだろう。坂井聖人に問うと、「指先くらいの差」と言う。世界最高峰のオリンピックという大舞台、しかもその頂点を決めるレースにおいて金色と銀色を分け隔てた記録は、当事者にとってどのような意味を持つのだろうか。

 8年前の2016年夏、当時早稲田大学3年生の坂井は、南米初のオリンピック開催となったブラジル・リオデジャネイロ五輪で「怪物」に真っ向勝負を挑んだ。「怪物」とは、過去3大会で表彰台の最も高いところに上ってきたマイケル・フェルプス(米国)。現役生活を通して、通算23個の五輪金メダルを獲得した比類なきスイマーだ。

 日本勢にとって、男子200メートルバタフライは2004年アテネ大会で山本貴司が銀メダル、08年北京、12年ロンドンと松田丈志が2大会連続の銅メダルを獲得しており、「お家芸」と呼べる種目ではあったが、その前に立ちはだかってきたのがフェルプスだった。

 それでも坂井は、自信に満ち溢れていた。

「リオ五輪に向けたメキシコでの高地合宿で、これは(本番でも)絶対にいけるなというくらい質のいい練習が積めていて、絶好調でした。まさに、ハマっちゃっていたんです。200メートルバタフライは(他種目も含め)世界王者を含めたライバルが出場していましたが、自分のなかでの一番の目標はやっぱりフェルプス選手でした。それまでは単に憧れの存在でしたが、今回は倒すべき相手として、戦うこと、勝つことをイメージして練習に臨んでいました」

 決勝は7レーン。レース序盤は思ったよりもペースを上げられなかったが、坂井は6番手で150メートルをターン。そこからラスト50メートルで見事な追い上げを見せる。

 大きなストロークで順位を一つずつ上げ、残り15メートル近辺で2番手に上がると、中央4レーンのフェルプスが視界の左側に入ってきた。「これはワンチャン(ス)、あるんじゃない?」と思い、さらにギアを入れ、最後の力を振り絞る。しかし「ラスト5メートルでバテちゃって……」、フィニッシュのタッチのタイミングが微妙に合わなかった。記録は1分53秒40、フェルプスにわずか0秒04差及ばなかった。

「銀メダルを取れたとはいえ、悔しさはありました。でも、そのわりには、レース直後は思いきりガッツポーズしてました(笑)。初めてのオリンピックだったので、メダルを取れた嬉しさのほうが大きかったんでしょうね」

 表彰台ではフェルプスと並び、星条旗の横に掲げられた日の丸を見つめていた。アメリカ国歌が流れるなか、「やっぱりここは、君が代だよな」と強く感じたという。

 これからもっと頑張って、4年後の東京五輪こそ――。

 しかしその後、坂井は厳しいキャリアを歩むことになる。

■違和感を覚えた2017年、動かない体に募った焦り

 以前から、肩に違和感はあった。翌2017年の世界選手権では得意の後半で失速しての6位。どうも自分の思うような動きができない。何より、自分が泳いでいる感覚よりも実際のタイムが遅い――トップスイマーにとって、それは状態が悪いことを意味する。

 故障と言える違和感は左側だったが、夏が過ぎると右肩に顕著な痛みが走った。

「実は2014年の夏に、トレーナーさんに肩を見てもらった時、痛みはなかったんですが、右の肩甲骨の内側がベッコリへこんでいることを指摘されたんです。でもその時は、きちんと専門医に足を運んで調べずに、今まで通りに練習していたんです。思い返せば、その時が始まりだったのかもしれません。左肩を故障したのは、知らないうちに右肩をかばっていたからだと思います」

 社会人となった2018年、4月の代表選考会で国際大会の代表入りを果たせず、夏に手術に踏みきった。

「精密検査の結果、右の肩甲骨の内側にガングリオン(関節付近にゼリー状の物質が詰まった腫瘤ができる疾患)がいくつか見つかり、それが神経を圧迫していたようです」

 ガングリオンを摘出した後、2~3か月のリハビリを経て練習に復帰したが、自身が描く泳ぎの感覚とはほど遠いものだった。東京五輪の選考会まで約1年ちょっと。焦りがあった。だから思わず――。

「リハビリ後、最初はキックからと言われていたのですが、両肩を使ってストロークも結構やってしまったんですよね。のちのち考えれば、それもよくなかったんですけど。

 この頃はポジティブに考えてはいたのですが、もう練習中、めちゃめちゃイライラしていたんですよ。肩だけで回す感じで、(水を腕でしっかりキャッチするための)背中が全然使えていない。プールサイドに上がる時も腕で自分の体を支えることすらできなかった。ウェイトトレーニングもできないし、日常生活でも支障をきたして寝る時は痛いし、ペットボトルを持つ時も力が入らないくらいでした」

 なぜ、そんな無理をしたのか、と人は言うかもしれない。坂井自身も、そんなことは言われなくても理解していた。フェルプスに0秒04、「指先分」の差まで迫った時の自分とはほど遠い体の状態と迫り来る東京五輪。その葛藤は、坂井にしか分かり得ない感情だったのだろう。

 東京五輪に向け徐々に調子を取り戻していたが、大会はコロナ禍で1年延期。その期間も自宅でインナーマッスルを鍛えたり、やれることはやったが、プールでの練習を再開しても思うような動きを水のなかで具現化することはできなかった。前回大会のメダリストは、東京五輪の出場を逃すことになる。

「東京五輪代表落ちは情けないと思いましたが、涙も出ませんでした。原因が分かっていたからです。2014年に肩のことを言われた時にちゃんと対処しなかったこと、手術後に痛み止めを打ってまで肩を使った練習をしたことなど、それ以前の行動に対して後悔もありました」

 その後の3年間も日の丸を背負う結果を残せずに、今年5月にプールから上がることを決意した。その間も何度か引退のことも考えたという。もがき、苦しみながらも、坂井をプールに留めたのは、何だったのか。

「結果的に社会人になった2018年以降、一度も日本代表に入れずに終わりました。それでも泳ぎ続けてきたのは悔しい思いをした分、また頑張れる気がしていたからです。こんなので、終われるかと。引退したあとの第二の人生のほうが長いし、現役の時よりきついことはもっとたくさんあると思っていました。だから、そこであきらめないよう、現役時代は納得いくまでやりきりたいという思いがありました。

 あと、やっぱり水泳が好きですからね。100パーセント引退するところまでは落ちていなかったので、ならば、創意工夫しながらやれればと思っていました。でもパリ五輪の代表選考会に向かう過程では、負けたらどうするんだろう、情けない結果になったらどうしようと考えることも多かった。その時点で競技者でなくなっていたんでしょうね」


引退後に地元・福岡に戻った坂井。今後は水泳のパーソナルコーチとして自身の経験を伝えていく予定だ【写真:本人提供】

■第二の人生で思い描く2つの挑戦

 最終的に引退を決断したのは、発表する直前のことだったという。

 でも今は気持ちを切り替え、新たな人生を歩み始めようとしている。

「自分のなかではもう、(リオ五輪銀メダルは)過去のことです。でもこういう取材を受けると、やっぱり思い出しますね」

 競技者としてのプレッシャーから解放された、穏やかな表情で8年前のことを振り返る。もっとも肩の痛みに苦しんでいた当時の取材でも、坂井が発する言葉こそ深刻な内容ばかりだったが、なぜか悲壮感を感じさせることはなかった。それもまた、坂井の不思議な魅力でもあった。

「(自分の状態を説明しても)自分がつらいことを周りの人に感じられたくないんです。きついこと、辛いことは自分のなかで解決するものと思っていたからかもしれませんね」

 坂井は現在、故郷・福岡に戻り、今後は水泳のパーソナルレッスンを事業展開していくことを模索している。そして、その先にはもう一つ、アパレルブランドを展開する夢も抱いている。

「兄の影響もあって、小さい頃からずっと洋服に興味を持っていました。好きだったので、いつの日か水泳をやめてから挑戦したいと思っていました。

 今は、まずはパーソナルコーチとしての活動、ゆくゆくは水泳関連のアパレルブランドを展開したいと思います。そのあたりが今はまだバランスを図りながら、どうやっていこうか考えているところです」

 紆余曲折の競技人生の間もずっと「好きだった」水泳と、プライベートで熱を入れていたアパレル。坂井はこれからも自分らしく、第二の人生を歩んでいこうとしている。

■坂井 聖人 / Masato Sakai

 1995年6月6日生まれ、福岡県出身。地元の柳川スイミングクラブで幼少期から泳ぎ、小学6年生からバタフライを主戦場とした。中学時代から全国の舞台で頭角を現すと、インターハイでは高校1年で男子100メートルバタフライ、高校3年で男子200メートルバタフライを制した。卒業後は早稲田大に進学すると、21歳で迎えた2016年リオデジャネイロ五輪に出場。男子200メートルバタフライ決勝で驚異的な追い上げを見せ、怪物マイケル・フェルプスに0秒04差に迫る銀メダルを獲得した。その後は肩の怪我にも悩まされ、東京五輪、パリ五輪の代表に入れず。今年5月に現役引退を発表した。(牧野 豊 / Yutaka Makino)

牧野 豊
1970年、東京・神田生まれ。上智大卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。複数の専門誌に携わった後、「NBA新世紀」「スイミング・マガジン」「陸上競技マガジン」等5誌の編集長を歴任。NFLスーパーボウル、NBAファイナル、アジア大会、各競技の世界選手権のほか、2012年ロンドン、21年東京と夏季五輪2大会を現地取材。22年9月に退社し、現在はフリーランスのスポーツ専門編集者&ライターとして活動中。

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