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1971年「猪木vsザ・シーク」幻のポスター 土壇場で〝鉄の爪〟エリックに代わった大人の事情

東スポWEB / 2024年6月30日 10時28分

「日プロに復帰した猪木がギブアップしたのは〝4の字固め〟のザ・デストロイヤーのほかにはマイク・デビアスとネルソン・ロイヤル、そしてエリック。3人しかいません」(流さん)

デビアスはデストロイヤーとのタッグで馬場&猪木のBI砲と対戦(67年5月14日、栃木県体育館)。1本目にアルゼンチンバックブリーカーで。ロイヤルは名コンビといわれたポール・ジョーンズと組み、猪木&大木金太郎組のアジアタッグ王座に挑戦(69年3月1日、愛知県体育館)。2本目にテキサスブロンコ・バックブリーカー(キャメルクラッチ)を決めギブアップを奪ったことが記録に残っている。

猪木は65年(昭和40年)の海外武者修行時代、テキサス地区でトップを張っていてエリックと抗争を展開していた。8月27日にヒューストン・コロシアムでデューク・ケオムカと組み、エリックとキラー・カール・コックス組のAWA世界タッグ王座にも挑戦した。1―1から猪木はエリックにアイアンクローを決められ、そのままフォールされて惜敗。

当時の東スポを見ると、猪木は「エリックとは今日で5回やって5回とも負けた。今日はフルファイトしたし、負けても悔いはない」。そう山田隆記者に答えている。

それから6年後、猪木は王者としてエリックを迎え、スリリングな攻防を披露し、引き分けで王座を防衛したのだった。

ところで、猪木とシークの対戦はドタキャンから3年後の74年(昭和49年)に新日本プロレスで実現。シングルマッチは11月12日、13日に沖縄・那覇奥武山体育館で2連戦行われた。初日は猪木が暴走して反則負け。2日目はランバージャック・デスマッチで行われたにもかかわらず、シークは場外に逃げて試合を放棄。猪木が勝利を収めた。

シークはその後、九州地区3連戦の契約が残っていたにもかかわらず途中帰国した。

流さんは「デトロイトでキラー・ブルックスが造反を起こし、傘下のレスラーが別派を結成したからです。札幌のときと似たような背景でドタキャン、途中キャンセルになった。〝プロモーター、偉い人あるある〟なんです」と笑う。

さまざまなできごとが脳裏に去来するシンプルなポスター。今から52年前の、貴重なお宝だ(敬称略)。

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