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フリッツ・フォン・エリックのアイアンクロー 最初の〝犠牲者〟が衝撃語る「呼吸ができない」

東スポWEB / 2024年9月8日 10時9分

門馬氏(右)はエリックのアイアンクロー犠牲者第一号になった(1966年11月、永田町のホテル・ニュージャパン)

【プロレス蔵出し写真館】9月10日は1997年(平成9年)に亡くなった〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリックの命日だ。

今年4月5日に映画「アイアンクロー」が日本でも公開された。長男以外は皆プロレスラーとなり、二男ケビン以外は不遇の死を遂げ〝悲劇の一族〟と言われた。

さて、エリックが初来日したのは66年(昭和41年)11月27日。日本プロレスの外国人レスラーの定宿、永田町のホテル・ニュージャパンの814号室で会見に臨んだエリックは本紙・門馬忠雄記者(当時)相手に得意技アイアンクローを披露した(写真)。

門馬氏は「スポニチの松明さん(邦彦記者)とオレがやられた。周りの関係者がけしかけたんじゃないかな。コメカミが痛かった。鼻を潰す形になるから呼吸ができなかった。スパン(親指の先から小指の先の長さ)32センチで、手がデカかったな」と振り返る。

12月3日、日本武道館で行われたプロレスのこけら落とし興行でエリックはジャイアント馬場のインターナショナル王座に挑戦した。門馬氏は馬場よりも先にアイアンクローを食らった犠牲者第一号だったのだ。

エリックは馬場と〝手が合い〟数々の名勝負を残している。中でも75年(昭和50年)7月25日、日大講堂で行われたテキサス・デスマッチは観客の憎悪を買い、思わぬ〝事故〟も起こっている。場外乱闘のさなか、興奮した観客が馬場ともみ合うエリックの耳にボールペンを突き刺したのだ。

当時の紙面には「興奮したお客がエリック目がけて何か投げつけた。光るものだ。万年筆だろうか、それともボールペンのようなものだろうか。それがエリックの右耳の後ろ部分に突き刺さった。みるみるうちに出血」とある。馬場も「お客さんが投げ入れた万年筆のような鋭い金属製のものがエリックの頭に突き刺さってひどく出血した」と語っていた。

ユーチューブで映像を見ると、投げ入れたのではなく、お客が〝刺す意思〟を持って手を振りおろす映像がはっきりと残っていた。〝昭和の〟観客の興奮度合いは半端じゃなかった。

エリックは馬場と試合を続け、追い打ちの耳そぎチョップを食らい、場外でダウンすると10カウントが数えられKO負けを喫した。

それでも、試合後すぐに羽田の東京国際空港に直行し、午後10時30分発カナダ太平洋航空21便で帰国の途に就いた。8月3日に米ニューオーリンズで行われるNWA総会に出席するため、急いで帰国したのだ。

米テキサス州ダラスで〝エリック王国〟を築き上げていた大プロモーター、ジャック・アドキッセンの〝顔〟になっていた。

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