1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

信玄と家康に仕えた「大久保長安」悲惨すぎる末路 板倉勝重と同じく実力を認められたものの…

東洋経済オンライン / 2023年12月31日 7時20分

長安もまた勝重と同じく、家康の関東転封を機に出世している。甲州街道が通る交通の要所、八王子の代官頭を任せられると、正確な検地によって財政を潤わせた。

行政マンとしての働きぶりを評価され、関ヶ原の戦いののちは、10カ国の支配を任されるまでになった。そのなかでも、重要な任務が鉱山経営である。

勝重の場合はその実直さを武器に名奉行として庶民から慕われたが、長安はアイデアと組織力に長けていた。

採掘においては、甲州流の採鉱法を導入。横穴を掘り進める坑道掘りによって、鉱脈を広く深くたどることに成功した。

さらに、石見銀山では、ポルトガルから伝わる「水銀流し」とも呼ばれるアマルガム法で、莫大な銀を生産。慶長11(1606)年から慶長12(1607)年にかけての1年間で、幕府に納められた銀の量は1万貫以上に上り、実際の採掘量はその何倍もあったとされている。

組織力については、優れた山師を配下に置いて差配し、産額を飛躍的に伸ばすことに成功。女性が鉱山に入るのはタブー視されていたが、女性にもどんどん採掘させたという。

また政略結婚を巧みに行うことでも、長安は確固たる地位を築いていく。

莫大な富を手にした長安は、贅沢な暮らしを存分に楽しんだ。そうして景気よく振舞うこともまた、新しい時代の到来を、庶民に印象付けたことだろう。

家康が重宝した勝重と長安。ベテランの家臣という点では、共通する2人だが、タイプはまるで異なる。

勝重は町人から賄賂を一切受け取らなかった。それどころか、私情を挟むことのないように、妻に仕事に口出しをすることを禁じたという。

窮屈なほど清廉潔白で公平かつ着実に業務にあたった勝重と、アイデア豊富で行動力抜群だった長安。勝重に奉行を、長安に鉱山経営を任せたことは、家康が得意とした適材適所な人事配置だったといえるだろう。

金銀山の経営で結果を残した長安は、その後も、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官と順調に出世を果たす。余人に代えがたい人材だったのだろう。中風にかかったときは、心配した家康から烏犀円を与えられている。

烏犀円とは、健康オタクだった家康が自ら調合し服用した薬だ。作り方は家康しか知らず、めったに人にあげることはなかった。それだけ、長安を評価していたということだろう。

長安の死後に一族は厳しく処罰される

だが、慶長18(1613)年、69歳で長安が没すると状況は一変する。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください