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源氏物語の作者「紫式部」謎に包まれた家庭環境 式部の父親や母親はどんな人だったのか?

東洋経済オンライン / 2024年1月6日 11時0分

当時、諸国は経済力や土地の面積、人口などによって「大国」「上国」「中国」「下国」にランキングされていました。

このうち、高い位置付けにある大国には「大掾」「少掾」が置かれたのです。

最上位の大国はどこかというと、大和国(奈良県)・河内国(大阪府東部)・伊勢国(三重県北中部)・播磨国などの国々でした。

上国は、山城国(京都府)・備前国(岡山県東南部)そして越後国(新潟県)といった国々。中国や下国については、もしかしたら、差し障りがあるかもしれませんので、省略しましょう。

紫式部の母と父の出会い

余談となりましたが、式部の父・為時は、22歳頃に、「大国」播磨国の地方官に任命されたのでした。

為時が播磨権少掾に任命されたとき(968年)に、彼が22歳だったとすると、為時の生年は946年ということになります。

地方官任命の前後に、為時は、藤原為信の娘と結婚したとされます。為信の娘というのが、前述したように、紫式部の母となる女性です。

為信の家は、藤原長良(平安前期の公卿。802〜856)の末流とされます。

長良は、藤原北家の藤原冬嗣(平安前期の公卿。右大臣や左大臣を歴任。藤原北家が栄える基礎を作ったと言われる)の長男でした。

その長良を祖先に持つ為信は、933年頃の生まれと推測されています。式部の父・為時よりも、13歳も年上ということになるでしょう。

為信は、969年には越後守、それ以降は、常陸介や右近少将に任命されました。紫式部の少女時代に、母方の祖父(為信)は常陸介だったのです。そして、987年1月に為信は出家しました。

では、式部のお母さんはどのような人だったのでしょう。これについては、残念ながら、よくわかりません。

式部のお母さんの兄・理明の生母は「宮道忠用の娘」でした。兄・理明と同じ母ならば、式部のお母さんの生母は「宮道忠用の娘」ということになります。

宮道氏はそれほど上級の氏族ではなく、中級・下級クラスでした。為時と結ばれた藤原為信の娘は、969年には長女を、970年に次女を産んだとされます(その2年後には、長男・惟規を産む)。

この次女こそ、「光る君へ」の主人公・紫式部なのです。今でも3人の子を産むというのは、なかなか大変だと思いますが、1000年前というとなおさらです。

出産環境も現代に比べたら、当然ですがよくありません(乳幼児の死亡率も高かったと推測される)。元々、身体が弱かったということもあったかもしれませんし、3人の子を産んだことが身体に響いたのかもしれませんが、式部の母は、長男の惟規を産むとしばらくして亡くなってしまうのです。

式部の日記に母の思い出は書かれていない

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