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「亡き桐壺」に囚われる帝と母、それぞれの長い夜 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・桐壺③

東洋経済オンライン / 2024年1月7日 16時0分

と、その後はもう言葉もなく母君はむせび泣く。

「帝も同じことをお考えで……。『自分の心ながら、周囲が驚くほど深く愛してしまったのは、思えば、長く続くはずのない仲だったということなのだね。今となってはなんとせつない縁だろう。少しでも人の心を傷つけまいとしてきたのに、この人をこんなに愛してしまったがために、受けずともいい人の恨みをたくさん受けることになってしまった。そのあげく、こうしてひとり遺されて、気持ちの整理もつかず、ますますみっともない愚か者になりはてた。こんな私たちは、いったいどんな前世の宿縁だったのかが知りたい』と、幾度もおっしゃっては、涙に暮れていらっしゃいます」と命婦は語り、話は尽きることがない。泣く泣く、「夜も更けました。今夜のうちに戻って、ご返事申し上げなければなりませんので」と急いで帰ろうとする。

長い夜も足りないほど

月は沈みかけて、空は一面さえざえと澄み切っている。風は涼しく、草むらから立ち上る虫の音が、涙を誘うかのように響く。命婦はなかなか立ち去りがたく、車に乗りこめないでいる。

鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
(鈴虫のように声の限りに泣き尽くしても、長い夜も足りないほど、泣いても泣いても涙がこぼれます)

命婦は車に乗りこむこともできない。

「いとどしく虫の音(ね)しげき浅茅生(あさぢふ)に露おき添ふる雲の上人(うへびと)
(虫がしきりに鳴き、私も悲しみに泣く、この草深いわび住まいに、なおもまた、あらたな涙を添えてくださる雲の上のお人よ)

あなたさまのせいだと申し上げてしまいそうです」

と、母君は取り次ぎの女房に伝える。

風情(ふぜい)ある贈り物をしなければならないような場合でもないので、ただ形見として、こんなこともあろうかと残しておいた娘の装束一式と、髪上(くしあ)げの道具のようなものを添えて命婦に託す。

年若い女房たちは、もちろん未(いま)だ悲しみに沈んでいたが、これまでのはなやかな宮中の暮らしに慣れてしまっていて、この里の住まいがどうしてもさみしく感じられて仕方がない。また、帝の様子も心配で、命婦の言葉通り、早く若宮を宮中にお連れすべきだと勧めている。けれども、母君は、娘に先立たれた逆縁の、不吉な自分が付き添って参内するのも世間体が悪いだろうし、かといって、若宮と離れて暮らすのも気掛かりだし……と、はっきりと心を決められないままでいる。

次の話を読む:成長した若宮、うつくしいが故に漂う「不気味さ」

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代:小説家

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