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本名ではない「紫式部」、なぜ紫式部と呼ばれたか 生まれ年や没年すらもいまだ謎に包まれている

東洋経済オンライン / 2024年1月13日 7時30分

式部のお母さんは、式部を産んで程なくして、亡くなってしまいます。そして、式部の父・藤原為時は、その後、新しい妻との間に複数の子供をもうけることになります。昼は役所に勤め、夜は新しい妻(式部にとっては継母)のもとに通う生活を為時はしていたように思われます。

式部の幼いころの記憶

式部には、姉や弟がいましたが、彼・彼女らは、父が邸に帰ってこない夜などは、どのような想いで過ごしていたでしょうか。

父もおらず、母もいない邸内。女房(侍女)らはいたかもしれませんが、寂しい想いをしていた可能性もあります。

式部の幼少期の記憶には、女房との思い出があったようです。975年、式部が5歳の夏頃。夕方になると、青白い尾を長く引いたものが、何日も空に光っていたとのこと。女房らは皆、怖がり「あれは、箒星。見てはいけません」と式部に話したということです。

幼い式部は、不気味な箒星を興味深く思ったのか、それとも、恐怖に震える女房たちを不思議な面持ちで見ていたのか。式部の幼い頃には、世の中の情勢も不安定で、強盗や殺人・放火が横行していたようです。内裏が焼けたり、地震もありました。地震の際は、乳母が抱きかかえて、式部を庭に連れ出してくれました。あちこちで家が倒れる凄まじい音。濛々と上がる土煙は式部を驚かせたでしょう。

幼い頃の、父に関する思い出もあり、7歳の頃には、礼装した父の姿が印象に残っていたようです。乳母は式部に「お父様は今日は、東宮様(師貞親王、後の花山天皇)の御読書始で副侍読を務めるのです」と話して聞かせたといいます。

幼い式部にとっては、それが具体的にはどういうことかはわからなかったようですが(お父様はきっと偉いのだわ。素晴らしいことだわ)と感じたようです。

式部が10歳の頃には暴風雨が吹き荒れ、塀や垣根が倒れるという出来事もありました。役所の建物も多く倒壊したと女房たちが噂をしていました。式部はその話を聞いて出かけようとしたようです。どのようなことになっているか、この目で見てみたいと思ったのですね。

子供はこうした好奇心を持ちますが、なかには怖がって見に行かないという子もいるはずです。それを思えば、式部は恐怖心よりも、好奇心が勝った、好奇心溢れる少女だったと言えましょう。「何でも見てやろう」の精神があったのかもしれません。

しかしその式部の企みも、乳母に止められてしまい、果たすことはできなかったようです。私は式部のこの逸話に、将来、『源氏物語』を書くだけの才能ありと感じてしまうのですが、考えすぎでしょうか。

読書の楽しさを知った式部

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