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5男で生まれた「藤原道長」想定外の出世の裏側 父親の「遅い出世」が、道長に有利に働いた

東洋経済オンライン / 2024年1月14日 7時50分

だが、もし、長男に生まれていれば、2人とも青年期にこれほどもがいて活路を見いだすことも、歴史に名を刻むこともなかっただろう。

道長の父は権力闘争に敗れて冷遇

平安時代に大きな権力を握った藤原道長も、長男ではなかった。

道長は康保3(966)年に藤原兼家の5男として誕生する。兼家は女好きだったらしく、多くの妻妾がいた。妻妾のなかでも正妻格だったのが、「摂津守」などの要職を歴任した藤原中正の娘、時姫である。

時姫は兼家との間に、長男の藤原道隆、4男の道兼、長女の超子、次女の詮子、そして、5男の道長を生んでいる。

同母の兄が2人もいた道長には、出世する見込みがなかったといってよいだろう。それにもかかわらず、なぜ、平安時代随一の権力者となれたのであろうか。その要因として、父の出世が「遅かった」ことが挙げられる。

道長の父・兼家は藤原摂関家(藤原氏嫡流)の3男として生まれた。兼家の父、つまり、道長にとっては祖父にあたるのが、村上天皇のもと正二位・右大臣になった藤原師輔(もろすけ)である。

『栄花物語』では、師輔のことを「一苦しき二」という言葉で評している。これは「上席である兄の実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者」ということを意味している。秀でた師輔の才を感じさせるとともに、藤原家における兄弟争いの熾烈さが、この表現からはよく伝わってくる。

師輔が病に伏して、天徳4(960)年に51歳で病死すると、長男の伊尹が頭角を現す。伊尹は天禄元(970)年に右大臣になると、さらに円融天皇の摂政となり、翌年には、正二位・太政大臣にまで上ったが、48歳で亡くなってしまう。

長男の急死によって、3男の兼家は、2男の兼通と後継者を巡って争うことになるが、敗北。円融天皇との関係が良好だった兼通が、後を継いで関白となっている。

その結果、兄の兼通からライバル視された兼家は、大納言から治部卿に降格させられて、長く不遇の時代を過ごす。

道長が生まれたときも、兼家は38歳にして従四位下左京大夫というぱっとしない地位に甘んじており、まだ公卿になっていなかった。

父の遅い出世が道長を栄華に導いた

ところが、兄の兼通が病死したことによって、状況はがらりと変わる。冷遇されていた兼家が出世し始め、ついには摂政にまで上り詰めたのである。

ようやく出世した父は、これまでの恨みを晴らすかのように、次々とわが子を要職に引っ張り上げていく。兄たちをはじめに、5男の道長も権中納言に昇進することとなった。

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