紫式部の父「宮中人事に不満」失意の中の仰天行動 勝負に出た「藤原為時」が詠んだ漢詩の内容
東洋経済オンライン / 2024年1月21日 11時40分
まるで自分に向けたような言葉だ。「人生がここから動き出す」、そんな期待に満ちあふれている。夜明けを迎えようとするときの偉人の言葉は、停滞期に苦しむときほど、心に響く。
藤原為時が明るい未来を見通した和歌
紫式部の父、藤原為時もまさにそんな気持ちだったに違いない。
為時は、文章生(もんじょうしょう)出身の学者で、高い教養を持ちながらも、なかなか官職を得られなかった。
しかし、永観2(984)年に花山天皇が即位すると、式部丞(しきぶじょう)・蔵人(くろうど)に任命されることとなった。
式部丞とは、文官の人事や教育などを担う「式部省」の役人のこと。いわば、文部科学省のようなところで、為時は六位蔵人の職につけたのである。
為時の娘、紫式部は生まれもはっきりせずに、本名も明らかではないことはすでに書いた(記事「聡明な紫式部に父が口にした「忘れられない一言」」参照)。後世で「紫式部」と呼ばれるのは、為時が「式部省」の役人を務めていたからである。
出世のきっかけは、7年前の貞元2(977)年にあった。のちに花山天皇となる東宮の御読書始において、為時が「副侍読」についていたことが幸いしたようだ。
38歳という年齢にして、ようやくエリートへの道が見えてきた為時。喜びをこんな歌に込めている。
「遅れても 咲くべき花は さきにけり 身を限りとも 思ひけるかな」
咲き遅れても咲くはずの花は必ず咲くものだ――。
自分の頑張りを見てくれている人は、必ずどこかにいる。前述した偉人たちのごとく、為時の人生がこれから好転するかに見えた。
ところが、為時の場合は、そううまくはいかなかった。自分を引き上げてくれた花山天皇が出家してしまい、再び不遇の日々を過ごすことになったのである。
期待が裏切られたときほど、人生で苦しい時期もないだろう。花山天皇が突然、出家したのは寛和2(986)年。紫式部が16~19歳頃のことだ。
懸命に役職に就こうとはするものの、何かと人生がうまくいかない父。その背中を、娘としてどんな思いで見つめていたのだろうか。残念ながら、紫式部がどんな少女時代を送ったのかはよくわかっていない。
ただ、残された和歌をみると、孤独でふさぎ込んでいたということでは、どうやらなさそうである。
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影」
小倉百人一首の57番として収録されているので、耳にしたことはあるかもしれない。『新古今和歌集』では、この歌を詠んだ背景として、紫式部がこう振り返っている。
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