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中央線東小金井駅、地味だが「日本初」の誕生秘話 地元が費用を全額負担して開設した「請願駅」

東洋経済オンライン / 2024年1月23日 6時30分

愛称にあるマロンは、この地域の昔の地名である栗山に因んだもので、近隣の公園や建物の名前にも栗山が残っている。

内部は会議室やギャラリーなどがあり、駅に関する展示物などはないが、入口脇に駅の開設の経緯を書いた記念碑とともに、開設に尽力した宮崎氏の胸像が立っている。

記念碑によれば、この地は昔から鉄道が走る姿を見るだけで乗れなかったことから、以前から駅の誘致を進めてきたものの叶わなかった。しかし戦後の人口増加を受けて再び誘致運動を開始し、宮崎氏を会長として、新駅設置協力会を立ち上げた。

市議会での議決もなされ、地元選出で防衛庁長官や郵政大臣などを務めた国会議員、福田篤泰氏の助けもあって、当初は難色を示していた当時の国鉄を翻意させることに成功したそうで、記念碑には紆余曲折、感無量などの言葉が並んでいる。

市内でいちばん古い「新小金井駅」

実は小金井市で最初にできた駅は武蔵小金井駅でも東小金井駅でもなく、西武鉄道多摩川線の新小金井駅だ。はじめての駅なのに「新」がついているのは、既に東北本線に小金井駅があったためだ。

新小金井駅も小金井市の東部にあり、東小金井駅の南、徒歩10分ほどのところにある。しかし乗り換えなしで新宿駅や東京駅に直行できる東小金井駅のほうが、市民にとっての存在価値は上であろう。いずれにしても悲願の開業だったことが想像できる。

ところでこの記念碑には、国鉄から新駅開設の条件の1つとして、貨物駅の併設が出されていたと書かれている。そのとおり東小金井駅には翌年、貨物駅も作られた。

実はこちらも、日本初の出来事の舞台になった。国鉄が自動車輸送を本格的に行うことになった際に、試験走行の舞台になったのだ。

戦後、急速に成長した自動車産業だったが、当時は東名高速道路すらない頃であり、工場で製造した自動車を確実に輸送する手段として鉄道が選ばれた。

当初は自動車メーカーが所有する私有貨車が用いられたが、積載可能な車種が限定されるうえに、帰路が空車になってしまい非効率だったことから、国鉄が汎用の車運車を開発して運用することになった。

まず試作車のク9000形2両が生まれ、試験に供されたあと、ク5000形として量産されたのだが、試験運用の場として選ばれたのが、東小金井駅と名古屋市の東海道本線笠寺駅だった。

自動車が鉄道で運ばれた

後者は三菱重工業(現在の三菱自動車工業)、そして東小金井駅では、後に日産自動車に吸収合併されるプリンス自動車工業の車両が積まれた。現在も日産ブランドで販売が続けられる「スカイライン」も含まれていたと思われる。

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