1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

「結婚猛反対にあう道長」の才能見抜いたある女性 道長は自分自身の出世にも自信を抱いていた

東洋経済オンライン / 2024年1月28日 12時30分

結婚を猛反対された藤原道長だったが…。(写真はNHK公式サイトより引用)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。第4回はまだ出世見込みのなかった藤原道長の結婚を巡るエピソードを紹介・解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

こんな出世する見込みのない男のところに、大事な娘を嫁がせたくはない。

【写真】藤原穆子。大河ドラマでは石野真子さんが演じる。

時の左大臣、源雅信はそう考えたらしい。長女の倫子に求婚してきた男に拒絶反応を示したという。まさか、その男が貴族の頂点に立つとは、夢にも思わなかったようだ。

結婚反対されるほど出世見込みなかった

藤原道長が倫子に熱を上げて、求婚したのは22歳のときのことだ。永延元(987)年、父の兼家が摂政となった翌年にアプローチを行っている。

道長が源雅信に拒絶されたという逸話は『栄花物語』に記されており、雅信は「あな物狂ほし」(バカバカしい)と一蹴。

雅信からすれば、将来の后(きさき)にと大切に育てた娘を「口わき黄ばみたるぬし」(青二才)にやることなどできない、という思いがあったと描写されている。

散々な言われようだが、道長がそれくらい出世の見込みがなかったことが、よくわかる。なにしろ、道長は兼家の5男として生まれた。同母兄だけでも、13歳年上の道隆と、5歳年上の道兼と2人の兄がおり、周囲からすれば、目立った存在ではなかったようだ。現にこのときの道長は従三位・左少将。左大臣の娘の婿となれるような立場ではなかった。

ところが、そんな道長の才を見抜いていたのが、倫子の母・藤原穆子(ぼくし)である。穆子は賀茂祭や行列などで、道長の姿をみて、こう感心していたという。

「この君ただならず見ゆる君なり」

そのときの直感を信じて、穆子は「この話は私にお任せください」とまで言っている。

そして、結婚に反対していた夫の源雅信を説得。その結果、道長と倫子は、永延元(987)年12月16日に結婚を果たすこととなった。

自身の出世を信じていた道長

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください