1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

「結婚猛反対にあう道長」の才能見抜いたある女性 道長は自分自身の出世にも自信を抱いていた

東洋経済オンライン / 2024年1月28日 12時30分

道長の才を見抜いていた穆子の慧眼には驚かされるばかりだが、もう一人、同じように考えていた人物がいた。ほかでもない、道長本人である。
道長は自身の出世を信じて疑っていなかったようだ。『大鏡』には、次のような逸話がある。

道長の父の兼家が、まだ不遇だった頃のことだ。関白の藤原頼忠の子・公任(きんとう)が漢詩や和歌の才に優れて、音楽にも長けていたことが羨ましくて仕方がなかったようだ。兼家は息子たちの前でこう愚痴をこぼした。

「いかでか、かからむ。うらやましくもあるかな」

どうして、あんなに優れているのだろうか。うらやましい限りだ。父親にこんなことを言われたら、息子としてはへこみそうだが、兼家はさらに、こう嘆いたという。

「わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ、口惜しけれ」

私の子どもたちが、大納言の影さえ踏むことができないのが、残念だ――。そんな辛辣な父の言葉に、道長の兄たちは何も言い返すことができなかったという。そんななか、道長だけが、こう言ってのけた。

「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」

何と言う負けん気の強さだろうか。父や兄たちが唖然とする表情が眼に浮かぶ。権力闘争に勝ち残る者は往々にして負けず嫌いだが、道長も例外ではなかったようだ。

父の失望も着火剤として、政界を駆け上がっていく道長。そのきっかけとなったのが、倫子との結婚だった。

倫子の父・源雅信は、道長との結婚を「バカバカしい」と言い放つだけあって、左大臣であるだけでなく、生まれも高貴だった。宇多天皇の第8皇子・敦実親王の3男にあたる。そんな宇多源氏とつながりをもったことで、道長は朝廷内で地位を築く足がかりを作ることとなった。

平安時代には、夫婦は別居して夫が妻を訪ねる「妻問婚」(つまどいこん)から、次第に夫が妻の家に同居する「婿取婚」へと、結婚のスタイルが移行したといわれている。

道長も妻の倫子が両親と住む土御門第に通っていたが、結婚の翌年に長女が誕生すると、土御門第へと移り住むこととなった。この長女こそが、藤原彰子であり、のちに教育係として、道長は紫式部を起用することになる。

その一方で、道長は源明子のもとに通って、彼女とも結婚しているのだから、なかなか忙しない。

道長が明子の結婚相手に選ばれたワケ

明子は源高明の娘であり、道長の兄たち、つまり、道隆や道兼も求婚したとされている。そんななか、道長が明子の結婚相手として選ばれたのは、道長の姉、詮子の働きかけがあったからだという。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください