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不憫な運命の花「夕顔」が導いた光君の新たな恋路 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔①

東洋経済オンライン / 2024年2月4日 16時0分

「近頃ご病気が思わしくないと聞いて、いつも心配しておりましたが、こうして世を捨てた尼のお姿になってしまったのは悲しいです。どうか長生きをして、私が出世するのを見届けてください。その後で、極楽浄土の最高位に、なんの差し障ることもなく生まれ変わってください。この世に少しでも執着が残るのは、よくないことだと聞いていますから」と、光君も涙ぐむ。

光君を育てた乳母の苦悩

乳母という、お世話する子ならだれでもだいじに思うような人は、どんなに不出来でも立派な子だと思いこむものだが、まして、相手は欠点のない光君である。お世話した自分の身も誇らしく思っていた乳母は、光君からそんな畏れ多い言葉をかけてもらい、ひとしきり涙に暮れた。子どもたちはそんな母親を見苦しく思い、

「いったん捨てたこの世にまだ未練があるように、泣き顔を隠しもせずお目に掛けていらっしゃる」と、つつき合い、目配せをし合っている。光君は乳母をしみじみいとおしく思い、

「私がまだ幼い頃、かわいがってくれるはずの母も祖母も亡くなってしまって、世話をしてくれる人はたくさんいたようですが、私が心から親しく思える人はあなただけでした。大人になってからは、子どもの頃のように、朝に夕にとそうしょっちゅう顔を合わせることもできず、思うように訪れることもできませんでしたが、やっぱりずっと会えないでいると、心細くなります。もうこのままずっと会えないなんてことがありませんようにと、願っています」

と、心をこめて話しながら袖で涙を拭う。その袖の香りが部屋いっぱいに満ちている。母を見苦しいと思った子どもたちも、なるほどいかにも考えてみれば、光君を育てたこの母は並々ならぬ幸運な人なのだと思い、もらい泣きをするのだった。

加持祈禱(かじきとう)をふたたびはじめるようにと言い残して、光君は乳母の家を出ようとし、惟光に紙燭(しそく)を持ってこさせて先ほどの扇を見た。長く使いこまれ、かぐわしい移り香が漂う扇に、うつくしい字で書き流してある。

心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔(ゆふがほ)の花
(当て推量ですが、源氏の君かとお見受けします。白露の光にひとしおうつくしい夕顔──夕影に光輝くそのお顔は)

だれとわからないように変えてあるその筆跡も、気品があり、奥ゆかしい。みすぼらしい家なのに、ずいぶんと気の利いた人が住んでいるのだなと感心し、光君は惟光に、

「この西隣の家はどんな人が住んでいるのか、耳にしたことはないの」と訊(き)いた。

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