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式部の父を出世させた「花山天皇」その悲しい顛末 一条天皇の即位で、道長の父・兼家が権力握る

東洋経済オンライン / 2024年2月4日 7時50分

そんな冷泉天皇の子として生まれた花山天皇は、安和2(969)年に冷泉天皇の弟、円融天皇が即位すると、わずか2歳で皇太子に即位。永観2(984)年に円融天皇から譲位されるかたちで、17歳で即位することとなった。

即位式で暴走した花山天皇

『小右記』によると、花山天皇は即位式で、いきなり奇妙な行動に出た。

「玉冠が重いので、気のぼせする」

そういうと、即位式にもかかわらず、玉冠を脱いでしまい、周囲を慌てさせたという。そうかと思えば、清涼殿の壺庭で馬を乗り回すなど、ひと時も目が離せない子供のような振る舞いをしたことが、逸話として残っている。

極めつきが、女癖の悪さである。平安時代の説話集『江談抄』では、次のようにある。

「花山院、御即位の日に、大極殿の高座の上において、いまだ剋限をふれざる先に、馬内侍を犯さしめ給ふ」

なんと即位する日、大極殿の高御座のうえで、式典の進行の合図が鳴る前に「馬内侍」という女官を「犯さしめ給ふ」、つまり、交わっていたというのだ。鎌倉時代初期の説話集『古事談』にも、同様の逸話が記されている。

即位式からいきなり暴走した花山天皇。その治世は、どのようなものだったのか。

先代の円融天皇を補佐した藤原頼忠は引き続き関白にとどまったものの、存在感は薄い。のちに挙げる法令にもかかわったあとがない。

代わりに側近として実権を握ったのは、天皇の外叔父にあたる藤原義懐(よしちか)である。もう1人、政権を補佐したのが五位蔵人の藤原惟成で、「五位摂政」と評されるほど、権勢を誇った。

『大鏡』には、2人の実力者に支えられた「花山天皇体制」について、次のように書かれている。「ただこのひと」が藤原義懐、「惟成」が藤原惟成のことである。

「花山院の御時のまつりごとは、ただこのひとのと惟成の弁としとをこなひたまひければ、いとみじかりしぞかし」

そんなバックアップ体制で、花山天皇はさまざまな法令を発布している。

永観2(984)年には受領の兼官を禁止し、兼ねていた分は他の者に任ずるか、停任させた。そのほか「諸所饗禄の禁止」や、荘園整理令などの法令も出している。

また、同年に「破銭を嫌うことの停止」も、法令として打ち出した。なにしろ、天徳2(958)年に乾元大宝という銭貨が発行されて20年以上が経過している。欠けたり、割れたりして破損した貨幣を避けようという風潮があったのだろう。破銭が貨幣の物流を妨げることのないように手を打っていた。

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